コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 顔(1999/日)

この人生に吐き気を催されながら、生きたままでの“生まれ変わり”を望んでもがく人々の悲喜劇。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







母の死、そしてそれに続く、妹による家からの追い出し、この二つが、正子が自ら閉じこもっていた籠の消失をもたらす。更には、突発的に惹き起こされた妹殺しは、新たに外に別の籠を見出す事も不可能にする。これが、ずっと人生が滞ったままだった正子に、絶えざる生まれ変わりをもたらすのだ、幸も不幸も含めて。

最初に、妹の言葉によって、精神病院という籠に閉じ込められると思い込んだ正子は、靴も履かずに出て行くが、その事自体が、どこかへ出て行こうという意志の薄弱さを露呈している。雪の中、靴下だけでいる彼女に「靴、どうしたの?」と声をかける佐藤浩市=池田は、正子にとって一つのファースト・インパクト、逃亡犯として嘘の顔を被る前の素の自分を気にかけてくれた存在として、唯一の特別な存在感が与えられる。

だが、そんな池田は、自分をリストラした会社の顧客データを盗んで脅しをかけながらも、引き換えに要求した金がなかなか手に入らず、犯罪者一歩手前で足踏み状態だ。彼が観覧車の中で息子に「生まれ変わりって何?」と訊ねられて「この観覧車みたいにグルグル繰り返す事」と答えるのは、生まれ変わろうとしても結局同じ事の繰り返しであり、本当に全く別の存在になる事など不可能だと感じているからだろう。彼が、観覧車の回転に吐きそうになっているのもそのせいだ。

観覧車と同じ回転運動とはいえ、正子は、ずっと乗れなかった自転車に乗れるようになり、その回転運動のメカニズムによって、遠くへ素早く移っていく。映画の最後で、泳げなかった正子が泳いで逃げようともがく姿は、逃げ切る事による別の人生を求めているようにも、半分死のうとしているようにも見えてしまう。「生まれ変わり」とは、死ぬ事と生まれる事の両義性なのだ。

この映画の登場人物たちがよく嘔吐するのも、皆、生まれ変わりを求めているからだ。そして全員、それに失敗している。嘔吐とは、サルトルではないけれど、実存的な現象、今このようにして在る事への吐き気なのだ。正子が妹を殺したのも、互いに相容れず、相手の生き方を全否定し合う事しか出来ない関係の清算、つまり生まれ変わりを求めていたからではないか。トイレの鏡の前で、正子が妹の亡霊と出会い、その亡霊に首を絞められる場面は、全てが正反対という意味で、この姉妹が一つの鏡合わせの関係である事を示していないか?そもそもこの妹が、正子の人格を否定する事で、彼女の殺意を煽り、結果、正子は徐々に別人格のように生まれ変わっていく。しかも、妹と同じホステスになるのだ。

正子がこの映画の最後に逃げ込んだ島で、彼女は、キツネ祭の仮装をした子供に、テレビに顔が出ていると教えられる。最初のテレビ報道では、ずっと引き篭もっていた彼女は、学生時代のうつむいた姿の写真しか無かったのだが、今回の報道に出てきたのは、ホステスをしていた時に撮られた写真で、満面の笑顔をカメラに向けて、ピースサインをしている。自信を持って、顔を上げて暮らしていけるようになった事が、自らを窮地へと追い込んでしまう訳だ。キツネ祭の子供らは、顔を白く塗って同じ化粧をし、誰が誰だか分からない。そのキツネ祭に向かう途中で、正子が急いで逃げ出す羽目になるというのも、皮肉な所。

正子は池田に、愛人と蒸発した父親の姿を求めていたのだろうか。彼女は、各場所で、強姦されたり、自転車の乗り方を教わったり、水泳を習ったり、と、男を契機にして自分を変えていっている。自転車も水泳も、何故か夜中に練習しているのは、夜中に強姦されたという事実を、自分の一つの成長過程の一つに数えてしまいたい、という気持ちが無意識に働いての事かと推測させられる。強姦男に、母の葬式の香典を渡すのもそのせいだろうし、同時に、父親に会おうとしていたのをやめるのも、肉体という最後の籠のようなものが侵された事で、家族という籠を求める事の無意味さを悟らされたからとも解釈できる。だがまた、この肉体の一部として他者の目に晒されている顔が、彼女にとって、籠ならぬ牢獄ともなるのだ。

正子は池田に「月が西から昇ったら、一緒になって下さい。この約束が果たされず、もし生まれ変わってまた出逢う事が出来たら、同じ約束を…」と、何とも少女マンガチックな約束に、「うん」と言わせる。だが、電話でスナックのママに、「お腹が空いたらご飯を食べて、またお腹が空いたら、またご飯を食べて。遠くを見るんやないの」と説得される。「生まれ変わり」を繰り返そうとしている正子に、ママは、この人生の毎日を繰り返してくれ、と懇願するのだ。だが、「死ぬくらいやったら、逃げて」と頼まれた通りに逃げ延びる為には、やはり、別の人間に生まれ変わるしかないのだ。

池田に対して、殆ど恋する乙女状態の正子が、「月が西から昇ったら…」という誓いを求めるのは、本当に奇跡が起こって、毎日繰り返される出来事が逆転したら、という、不可能と知りながらの願いが込められている。太陽ではなく月、つまり、やはり夜。夜は小さな死、やがて日が昇って、生が更新される事への願いが感じられる。だから実は、様々な冒険を経て変貌していったかに見える彼女も、家に篭もって少女マンガの世界を夢見ていた気持ちから、根っこの所では変わっていないのだ。「変わりたい」という願望の「不変性」、という袋小路。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)けにろん[*] DSCH[*] ぽんしゅう[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。