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[コメント] バス停留所(1956/米)

「バス」を「駅馬車」に置き換えるだけで純-西部劇として通用しそうな筋だが、西部劇の長距離移動の多くが「経度の物語」だったのに対して、モンタナ-アリゾナ間の「緯度の物語」であるあたりに時代性が刻まれている(当然、マリリン・モンロー演じる酒場歌手が当初目指していたのは西の果てLAです)。
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画面の上で云えば、それはもっぱら停留所における「雪」の情景によって正当化を図られているが、それと同時に「雪」はモンタナ行きバスを停留所に一晩足止めさせるものとして説話的にも有効に消費されるだろう。

ロデオ大会と、終盤の停留所におけるモンローとドン・マレーのアップカット芝居(撮影ミルトン・クラスナー)というふたつのシークェンスが映画の最大の見せ場を担う。しかし、それらの間に横たわるマレーの人格の分断ぶりを観客に納得させる手続きはじゅうぶんに取られていない。マレーに対し、愛すべき無知・無垢という以上に狂人の印象を抱いてしまうのは無理からぬことに思える(一方で、「一目惚れ」がいかに作劇として強力な手段であるかも再認識します。一目惚れは、その対象を好きになる理由=過程を要しません。それゆえ却って想いの強さを無限大のものとしても表現できます)。映画はその補償として、脇に魅力的な人物を配置することを怠っていない。食堂の女主人ベティ・フィールド、運転手ロバート・ブレイもむろんすばらしいけれども、マレーの後見役アーサー・オコンネルこそがモンロー以上に真の天使であると云いたい。彼のつま弾くギターが裏のMVPだ(同時録音であるか否かに関わらず、画面内への音源導入は常にシーンを豊かに彩ります。映画史上それを最もよく知っていた演出家はハワード・ホークスである。などと大口を叩きたい衝動を抑えて我が邦に目を向けてみても、たとえば小林旭ギターを持った渡り鳥』や石原裕次郎嵐を呼ぶ男』などを思い返せば明らかなように、少なくとも一九五〇年代までの日本映画もその映画的事実を忘れていなかったのでしょう)。また、ホープ・ラングの控え目で清らかな在りようも快い。あるいは現代映画であれば、ラングの役にこそヒロインの資質を見出すのかもしれないと妄想を逞しくする。

アクターズ・スタジオでの特訓が喧伝されるモンローについては取り立てて感心を覚えない。むろん、この云い草に彼女を貶める意図はまったくない。作中で自身に求められるキャラクタを成型する技術の精緻度にかけて云えば、すでに彼女は過去の全作においてこの程度の仕事を余裕綽々にこなしていたのではなかったかしら。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)寒山拾得[*] ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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