[コメント] 欲望(1966/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ミケランジェロ・アントニオーニといえば、かのアルベルト・モラヴィアが「現代の小説と詩に固有の手法とイメージをスクリーン上に現出させ、大方の“語り”の映画とネオ・リアリズモ映画を色あせたものにした」と賞賛したように、抽象的な構図の長回しで、革新的かつある意味「文学的な」表現を特徴としてきた監督だったが、ここではハービー・ハンコックの音楽に乗ってスピーディーでスリリングな展開をもって全編に「リアル」と「イリュージョン」の対比を張りめぐらせ、「現実とは何か」というテーマを追求して面白いことこの上ない。
私見では、このイタリア人映画監督は他の誰よりも60年代のスウィンギング・ロンドンの空気を見事に切り取っていて、当時、カルチャー全体として、表現のエッセンスのモードが「文学性」から「音楽性」へと移行しつつあることを、誰よりも敏感に感じ取っていたように思う。
映画はオープニングとラストにパントマイムの若者たちを登場させ、さらに序盤には当時のトップモデル=ヴェルーシュカをフィーチャーしたフォトセッション、終盤には今や伝説のロック・バンド=ヤードバーズのライヴセッション、という、ともにエキサイティングかつ示唆に富んだ有名な山場シーンを配置し、センターには、これも有名なBlow-Up(写真の引き伸ばし)のシーン、その間にバネッサ・レッドグレイブ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン(とジリアン・ヒルズ)と主人公が絡む三者三様のエピソードを挟み込んだ見事な全体構成。
「具象的な物語を追いながら観賞し明快な結論からカタルシスを得る」というハリウッドスタイルとは正反対の、結論の提示もなく自分で物語を読み取るしかないアントニオーニの抽象表現は、現代の「わかりやすい」映画に慣れ親しんだ目にはちょっととっつきにくいものなのかもしれない。この映画に対する「感想」はまず、見たものがどういう物語を読み取ったか、ということから始めるしかない。それを詳細に書けば1冊の本(しかもひとりひとり別のバージョンの)が出来るのかもしれないくらいの豊かさがここにはある。その中から、以下いくつかのポイントだけでも、自分の「バージョン」を書いてみる。
超人気のカリスマ・ファッション・カメラマンであるトーマス(デビッド・ヘミングズ、映画の中では役名は呼ばれない)は、その富と名声と引き換えに消費的な仕事の連続から精神が荒んできている。彼を「リッチ&フェイマス」にしたファッション写真の仕事であるが、所詮は皮相的な「イリュージョン」に過ぎず、そこには何のリアリティもないと感じはじめたトーマスは、自己アイデンティティの危機に瀕していて、必死に「リアル」を求めてロンドンの街をさまよい、さまざまなシーンのドキュメンタリーで写真集を作ろうとしている。
ところが、多くの「荒んだ現実」の写真と対比させようと撮影した「平和な風景」であったはずの朝の公園の写真をスタジオに戻って拡大してみると、そこに殺人事件を示唆する「死体のようなもの」が写り込んでいるのに気がつく。慌てて、すでに夜になった公園に戻ったトーマスは、しかしもうそこに何も発見することが出来ない。そうして、「何が事実なのか?」という単純な疑問が、トーマスを「一見そう見えるものが実はそうではない」という「リアル」の多層構造の迷宮に陥れて行くことになる。しかし、観客はすでに映画の冒頭で、浮浪者の群れに混じってドサ宿から出て来るいかにも貧しそうなトーマス自身が、次の瞬間にはロールスロイスに跳び乗って走り去って行くのを見せられている!
バネッサ・レッドグレイブが、劇中では名前すら与えられず、恐ろしいまでに神経症的で分断され統合的な人格など感じさせない、いわばただただ動揺する色彩として画面を構成するパーツになりきっている一方、飛びぬけて肉感的で感情的な表出を見せるサラ・マイルズは、固有の人格と悩みを体の温もりとともに感じさせる「普通に上手な」演技で、鋭い対比を形成している。設定ではこの映画の中で彼女だけが名前(パトリシア)を持った女性であるのも象徴的だが、最終的な映画の中ではトーマス同様名前を呼ばれることはない。こうした刈り込みの鋭さに、アントニオーニ絶頂期の冴えを感じる。
そのパトリシアの夫ビルはトーマスの友人でもあり、「作品の意味は見る人の解釈が与える」と言う抽象画家であって、ここにもひたすら現実を追い求める写真家である主人公との対比が形成されている。しかし、音楽の世界で言えば、新ウィーン楽派以来の十二音技法が「完全な構造」を持つ全面セリーへと論理的な展開を見せた結果、対極的に「構造を持たない」完全即興の、いわばデタラメな偶然音楽と聴き分けがつかない、というアイロニーの中に閉塞状況に陥ったことを思い起こさせるように、「現実を構成する事実」を追い求めて細部を何度も引き伸ばしたトーマスの写真を見て、パトリシアは「夫の絵画に似てる」と言う! さらに、その彼女も夫とのセックスでは「感じるふり」をしていることを隠さない。
いったい、「リアル」とは何であるか?
「リアル」を追い求めていたはずのトーマスは、皮肉にも「リアル」なパトリシアとはコミュニケーション不全に陥ってしまう。これはアントニオーニ監督の過去の「愛の不毛」3部作のテーマのエコーだ。そうして、「イリュージョン」を求めてカリスマ写真家たる自分に群がる女の子=ジェーン・バーキンたちを喰い散らかし、逆に精神の奥底に横たわる不安の象徴のような幻の女性=バネッサ・レッドグレイブに「リアリティ」を求め、彼女を追って「夜の街」を彷徨するはめになる。しかし、いくら引き伸ばしても確かな「現実」を見せることのない写真と同様に、どこまで追っても彼女が「リアル」になることはなく、トーマスはただひたすら混乱し途方にくれるだけだ。
映画の終わり、疲れ果てたトーマスは「朝の公園」で道化の格好をした一団が、パントマイムでテニスをするのを見る。公園とは「人工的な自然」であり、リアルの多層構造の謂いだろう。そこで、自分の方に転がってきた「見えないボール」を拾ったトーマスの耳には、突然、木々のざわめきの中にテニスの試合の「音」が聞こえるようになる。客観的な「事実」を追ってきたトーマスは、「リアル」の深層を主観的な「真実」に見る。そしてその次の瞬間には自分自身が消えてしまうという秀逸なラストショットによって「何がリアルか?」というこの映画の主題が、「果たして自分は存在するのか?」という「自己存在」の問題へと瞬間的に転移する。60年代最高の一本だと思う。
余談ですが・・・DVDの発売で久しぶりに再見したが、これの特典である「アントニオーニ研究家による音声解説」はすごかった。上記の「私的解釈」と大きく異なるのはある意味当然かもしれないが、でも、「主人公のこの行為の意味は明らかでない」「このシーンが挿入されている意味はよくわからない」「監督は何か考えがあったのだろうがそれは説明されていない」・・・って、おい??? ならばせめて、まだブロンドだった若きジェーン・バーキンの紹介くらいして欲しかったなあ。
さらに付けたしですが・・・ブライアン・デ・パルマ監督の1981年作品『Blow Out』が、この『Blow Up』に対するオマージュというのはこの原題を見ればすぐに判るんですが、『欲望』と『ミッドナイト・クロス』というどちらも原題からかけ離れた邦題のためか、関連性があまり知られてないかも。
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