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[コメント] 地下鉄のザジ(1960/仏)

オペラは踊る』の船室ギャグを例に引くまでもなく、画面内人物の常軌を逸した増殖ぶりが正調スラップスティック。コンティニュイティの原則を無視した「繋がらない」画面群でそれを語るのがヌーヴェルか。映画的だとは云わない。だが瞬間の快楽にのみ奉仕する着想に富む。でも退屈な映画。けど好きな映画。
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**ネタバレ注意**
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マトモな人がひとりとして登場しないというのが志の高さだ。マトモでない人々同士なのだから、当然「大人は判ってくれない」し「子供も判ってくれない」。ただ狂騒が演じられ、画面は退屈に支配される。あるいは盛大な「破壊」と「廃棄(ポイ捨て)」の映画と云おうか。ところを構わず、ものを問わず、人々はただ壊し、捨てる。彼らは瞬間に生きている。その度を越した瞬間の特権化/断片化(カット間どころかカット内においても繋がらないアクション)が活劇の成立を阻む。退屈とは、つまりそれだ。

しかし、人が瞬間にのみ生きつづけることなどできようもない。連続性の内に私たちはある。さりげない仕草でマルはそれを示してみせる。すなわち、パリでの二日間について尋ねられてカトリーヌ・ドモンジョが答えるところの「歳を取ったわ」の一言。さらには、オープニング・エンディングの両タイトルバックを務めるところの延々と伸びつづける線路の画面もまたそうだろう。その残酷で愛すべき現実を誠実に踏まえつつ瞬間の狂騒に命を懸けた『地下鉄のザジ』は、やはり退屈で、魅力的な映画だ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)緑雨[*] ゑぎ けにろん[*]

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