[コメント] ミクロコスモス(1996/スイス=仏=伊)
↑チラシやポスターで謳われていたキャッチコピー。
正直、自分はそのキャッチコピーをちょっとした失望と共に受け留めた。映画を見終わってからそのキャッチコピーを目にして、「何だ、そういうことだったのか」と思ってしまった。
「虫の話」の映画を期待して観にいったのに、「人間の物語」の如く過剰に(とくに音楽的に)「演出」された映像に疲れてしまった。
その昔『蝿男の恐怖』というアメリカのB級映画で、蝿男の複眼の視点という(なんとも間抜けな)ものが再現されていたが、極端に言って、自分にとっては「映画を観る」とはあんなものをこそ見ることなのだ。その目で見たら世界はどんなふうに見えるのか。それを見てみたいと思ってしまう。それは人間の物語の投影であって欲しくはない、それではつまらない。この映画を観て思い出すものに、『風の谷のナウシカ』の「腐海」もある。あれはそこいらの雑草の生い茂る草むらに小さな人間が入っていけばきっとあんなふうに見えるだろうというような世界だ。巨大な団子虫、羽虫が跋扈し、菌類が繁殖する異界。そこに入っていく小さな人間は、人間としての傲慢さを見せることなどできない(見せればたちまちとって食われる)。彼(女)は存在を探求する孤独な観察者(視点)であり、その意味で彼(女)は人間的な視線から解放されているのだ。
作り手の労苦は分かるけれど、この映画は自分には「ちょっと違う」という違和感が残る作品だった。雨粒が巨大な水玉として羽虫を撃ちつけたり、何でもない水溜まりの表面が恐るべき粘着的な塊となったり、そんな冷静で客観的な視点だけでずっと押し通して欲しかった。カタツムリの接合シーンに「愛」という形容詞(が付きそうな音楽)を付して欲しくなどなかった。
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