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[コメント] リトル・ダンサー(2000/英)

ケス』に比べたらジュースのような脇役造型と物語そして演出、まさに甘口、これ見よがしなわりにピンと来ないBGM。話のなかでロンドンとは対比的な位置に置かれているはずの田舎で、何故にロンドンコーリング?
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前半は退屈だが、後半には注目すべきところがあった。

一つは、多くの方が指摘している「親父が息子を認めた」くだり、クリスマス(だったか?)の夜の体育館のシーンだ。前半辟易させられた記号性が、此処で機能する。「家族」と「ダンス」が相乗のリズムを奏する。少年のリズムが言葉も理屈も越えて父親に伝わり、彼を支配した。そして、父親は駆り立てられた。観客もまた彼のリズムに全てを抑え込まれ、支配される。家族という記号が音楽によって助長されると、ここまで大衆を踊らせる力を持つのだ。あるいは、この映画はこのワンシーンに収束しており、前半はこのワンシーンが機能する障害とならないよう記号に留められるべき必要さえあったのかも知れない。

二点目は、ビリーのキャラクターだ。純粋無垢とはほど遠い何かを感じた。「魔性」という言葉が相応しいだろうか。見ようによっては、この少年、関わる人物全てを拐かしては、相手が自分を求めてくるとすっと逃げていき、そのくせ彼らが嫌いになれないような微笑みを残しては、心を奪い続ける。多くのシーンがビリーと誰かの二人きりのシーンとなっており、どこか臥所を想わせるが、ビリー自身は永久に彼らのものとはならない。そうして取り残された者たちの描写が必ず出てきた。原っぱにおける父親との粘着質の抱擁。二人部屋での兄貴の変節、バス停での告白、しかしその声はビリーに届かない。コーチの娘、幼い少女が押し倒された火照りの冷めぬまま放った少女らしからぬ言葉は、しかしビリーに唾棄された。清らかな同性愛者の親友は正直にビリーを求めたものの、笑みとキスではぐらかされたまま、別れを告げられ、後年、ビリーの輝きとは程遠い醜態を晒した。そして、コーチだ。あれだけ、目をかけ、尽くしたにもかかわらず、合格を真っ先に知らせてもらえなかった。彼女はビリーにとってオンリーワンでも何でもなかった。特に後者三つはどれも表向きの文脈上必要ないシーンであり、ビリーの光源氏的な偶像性を醸成するための意図があったとしか思えない。つまり、これもやはり二元的に観客の心を引き寄せる装置だったのではないか。ときにビリーは本当に大人びたいやらしい目をしていたように、自分には見えた。

この映画が正面切って人間を描いていたとは思えないのだが、卓越した表現技法ではあったのかもしれない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)irodori ペペロンチーノ[*] 埴猪口[*] けにろん[*]

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