[コメント] ガールファイト(2000/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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己が真に弱いことを知ること。それも、とことん知ること。
さて第一に、ダイアナの傲慢さ、傍若無人ぶり、セルフィッシュな性格に辟易し、まったくシンパシーを感じ得ないというご意見もうなずけなくはない。第二に、彼女がボクシングを通じて、何を得たか(もしくは、何を失ったか)の描写は、極めて反映画的、反物語的でもある。劇的、いわゆる“ハリウッド的”な見せ(=魅せ)られるべき変化は乏しい(たとえば、『ロッキー』のような)。
しかし、それがダイアナの現実であり、アメリカの現実ではなかろうか。
ダイアナは「弱さ」をとことん自ら知るまでもなく、周囲から思い知らされ続けてきたのだ。「思い知らせる力」は、社会にもあり、学校にもあり、家族にもあり、彼女自身にもあり、彼女の住むブルックリンの空気にもある。とことん自分の存在が無価値で無意味に思えて、言い様のない不安と苛立ち、そして諦念に襲われながらも、必死にそれらを振り解くために「それでも、わたしはここにいる」と不器用に叫ぶのだ。否、“不器用”に戦えざるを得ない存在のだ。
そして、ダイアナはボクシングに出会った。そして、男に出会った。ここでも、彼女は“不器用”に戦う。
トレーナーであるヘクターとの会話の後の「ありがとう」、弟の申し出に対する「ありがとう」、父親に手を上げた後の沈黙、ラストのエイドリアンへの「俺を捨てるのか?」に対する応答。そこにある“ぎこちなさ”こそが、ダイアンの、不器用な者の、不器用にならざるを得ない者の「成長」の真なる姿であり、僕にはたまらなく愛しく思えた。
そして、僕は思った。ダイアンは、格闘技の道を往く多くの“平和”な街に住む“恵まれた”者が望む「強くなりたい」という思いとは、別の思いで、ボクシングの道を進んだのではないかと。エイドリアンだってそうだ。ただ「強くなりたい」のではない、「街を出たい」のだ。では、ダイアンは、どうなのだろう。
僕は思う。「わたしは、ここにいるんだ!」と叫ぶ声と場所を得たかったのだろうと。その“声”が拳であり、その“場所”がリングだったのだと。そして、その声をエイドリアンに届けたかったのだと。技術的な面は如何ともし難いものがあるが、あの試合のシーンは、最高のラブシーンだと。
[WOWOW/6.22.02]■[review:6.24.02up]
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