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[コメント] マレーナ(2000/米=伊)

全篇にわたってスコープサイズを活かした画作りが試みられており、多様で巧みなショットを見せてくれる。被写界深度のコントロールも実に適切だ。まったく見事な撮影だと云うほかない。
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**ネタバレ注意**
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それにもかかわらず、この映画は驚くほど私の心を打たなかった。「驚くほど」というのはレトリックでもなんでもなく、これほど見事な撮影を誇る映画に対しても人は感動を覚えずにいられるのか! と私は実際に肝を潰したのだ。この責めは本来なら演出に帰すべきなのかもしれないが、私はむしろ「決定的なワンショットの不在」にその理由を求めたい(まあ、煎じ詰めればそれも演出の問題に帰着するのですが)。

この映画は本当によくできている。しかし、観客の(と云ってまずければ、少なくとも私の)想像を超えるものは何ひとつない映画でもあった。一貫してジュゼッペ・スルファーロ少年を「見る=愛する男」として、モニカ・ベルッチを「見られる=愛される女」として描いており、それは徹底的な切り返しの不使用によって具体化されているのだが、(妄想シーンを除けば)最後の最後にただ一度だけスルファーロとベルッチが切り返しによって結ばれる。まったく教科書どおりだと云えよう。「ムッソリーニの頭が割れる」エピソードなどもシナリオとしては巧いのだろう。

またベルッチの心理を理解することが困難なのも(たとえ観客にとっては大きなフラストレーションになるとしても)必ずしも間違った演出によるものだとは云えない。ベルッチがどれほど能動的にアクションを起こそうとも、そのアクションは「スルファーロに『見られる』こと」を介在して、本質的に受動性を内在したものとして観客の目には映る。つまりベルッチの心理を理解できないことも〈見る‐見られる〉の関係に基づいた演出の結果であり、(演出の根本的な方向性さえ問題にしなければ)これも理屈の上では正しい演出だと云える。

だが、それがどうした、と私は云いたい。トルナトーレは理に詰んでいる。私は理屈や想像を超えた「決定的なワンショット」をこそ見たいのだ。ひとつの決定的なショットは百の欠点を補って余りある。どれほど計算高く正確に作られた映画であろうと、そこに決定的なショット=映画的瞬間が存在しなければ人は心を揺さぶられることはないのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)緑雨[*] ぐるぐる ゑぎ[*]

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