[コメント] 十二人の怒れる男(1957/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
無罪に至る過程で、老齢の男は、証言者の老人が確信に満ちた証言をしたのは、誰かに話を聞いてほしかったからではないか、とその心理を推測し、貧民街に育った男は、凶器となったナイフの使い方を解説する。この男たちはただ論理を闘わせるのみならず、このように、自らの人生の暗い部分を敢えて垣間見せるような形で、より良き判決に貢献しようとする。そんな姿に、地味ではあるが、感動した。僕にはこの二人が、最後まで有罪に固執したあの男と対照をなす存在に思えたのだ。
この男は、息子が自分を殴って離れていった事を口惜しそうに語り、どこか被告の少年とダブらせているように見える。彼がヘンリー・フォンダに「復讐者のようだ」と言われてしまう事、被告にその父親がしたように、自分も息子を殴っていた事、これらが、彼を意固地なまでに有罪に執着させていた事が感じられる。最後に独り有罪を主張していた彼が、遂に「無罪だ」と折れる場面で、息子と自分が仲よく微笑みながら写る写真を破り、泣き崩れてしまう姿からは、実は被告に最も感情移入してしまっていたのは、この男なのではないかという印象を受ける。
ヘンリー・フォンダは、信念の人ではなく、疑う人、躊躇する人だ。彼が最初に無罪に一票投じた場面で、彼は全く自信なげであり、ただ人の命がかかっているのだから、という点への引っかかりだけを理由に、「話をしよう」と持ちかける。彼はこの時点では、論拠を示す訳ではなく、‘話をする’事を提案するだけだ。この彼が実は、凶器に使われた「珍しいナイフ」を普通に店先で見つけて買っていた事は後から分かるのだが、これは別に被告がシロである事を証明する訳ではなく、ただナイフが決定的な証拠たり得ないという点への疑問符「?」を突き立てるだけだ。彼自身の内に信念があるのではなく、他の男たちに「何かないか」と、まずは問うているだけだ。
この事が重要なのだ。終盤に向かうに従って有罪派は、数を増していく無罪派に取り囲まれ、視線のリンチ(無視、或いは注視)を受けているような観すら無くはないのだが、それは無罪派の敵意というよりは、有罪派が、自分の信念を疑わず、自らの直感的な確信のみを根拠にする事が招いた事態なのだ。つまりは、他者に委ねる余地、相互性を許す態度を示さないからだ。無罪派の無言の態度は、対話を拒否する有罪派のそれを鏡に映して見せているだけなのだ。
思えば、裁判の証言者も、老人の方は前述の通り(推測ではあるが)、もう一人の女性の方も、髪を染め、眼鏡を外して、自分が奇麗に見えるように気を遣いながら証言台に立つという形で、他人からの言葉や視線を求めていた。陪審員たる十二人の男たちも、折角一つの部屋に集ったのだから、とでもいうように、裁判と関係の無い世間話をして交流する。この、一見すると、緊迫する議論からの息抜きタイム、或いは人間の自然な行動の描写、という以上のものに見えない場面。そこで人同士のコミュニケーションが描かれているからこそ、自分の言いたい事だけを言う人間に対する「無言」のプレッシャーが、コミュニケーションの回路を切る、という形での有効性を発揮するのだ。
この映画の美点は、ただ理性的に話し合う事の大切さを説いているのではなく、その原点に、躊躇、自らへの疑い、そして他人の言葉を聞こうとする姿勢、つまりは、劇中の台詞にもあった「礼儀」や「敬意」の方に重点を置いている所にある。この作品には、独力で事件の全貌を俯瞰しているような「名探偵」はおらず、善悪の闘いも無い。無罪派は、被告は犯人ではない、と主張している訳ではなく、無罪を証明する根拠があるとも言ってはいない。ただ、有罪にするには論拠が薄い、と、否定的、消去法的な立場であるにすぎない。ただ話し合いが行なわれ、事件によって奪われた命、自分たちの評決が左右する命、この両方の命に対する「礼儀」と「敬意」が払われた、ただそれだけだ。犯人が誰であるのか、本当の所は分からないし、その意味では「正しい」結論が出たのかすら分からない。この抑制にこそ、この脚本の品格が表れている。
尤も、冒頭の、判事のやる気無さげな様子や、被告の少年の、同情を呼ぶような怯えた表情など、作品の構成そのものに、有罪派に不利な要素が多いのは、ハリウッド的善悪二元論の引力から自由でない印象はある。これによって、致命的にケチがつくような事は無いのだが。
考えてみれば、僕も、何か映画を観終わった後、特に語るべき言葉が浮かんでこないままに、シネスケの他のコメンテーターの方々の評を参考にしている内に、少しずつ言うべき言葉が浮かんでくる事も結構ある。そうした実体験からも、取り敢えずは他者の意見を聞いてみる、という、特に信念も何も無いような態度が、実は自他にとって生産的なものに結びつき得るのだと、そうした事を、この映画は訴えているように思えてならない。ヘンリー・フォンダが、殆ど「何となく違和感が…」といっただけの調子で議論を持ちかけなければ、他の陪審員から出た意見も、無しに終わっていた筈なのだ。
激論の迫力だけがこの映画の魅力なのではない。意見を求められても「何も言う事が無い」と消極的な態度をとる者がいたり、議論の合間に、やや長い沈黙が挿み込まれて、検証、逡巡、留保、黙考があったり、また、ふと緊張感が弛んで、別の事に気を取られてしまったりするなど、汗をかいて議論する男たちの生々しい生態が描かれている。この点にこそ、劇としての面白さも、テーマを浮き上がらせる為の真摯さもある。中盤、口頭で評をとる際の、一人一人の声と顔が順番に示される場面は、生ぬるい議論が、個々の意志を問う一つの局面を迎えた事を如実に表す。こうした、一つ一つの画面作りが実に巧み。
それにしても、優れた脚本、優れた役者、優れた演出、優れた撮影、こうした「人の力」だけで、これほどの傑作を創る事が出来るとは・・・・・・。その事も含めて、何か「人間」というものを信じたくなる映画。
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