[コメント] 緋牡丹博徒 花札勝負(1969/日)
小津的な構図を戯画的にまで推し進め、登場人物間の惹き合い反発しあうエネルギーの様相を失笑寸前までに強調し、紋切り型のストーリーを煮詰めに煮詰め、徹底した様式化を図った結果として獲得された表現の自由度。この想像力の高さをどう讃えればよいのか。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画は奇跡に満ちている。
多用されるクローズアップの仰角の大胆さを、横顔を見せる藤純子の紅をひいた唇に宿るハイライトの光を、高倉健の肩に落ちかかる雪の落下速度を、突如アップになる長ドスのむくつけな卑猥さを、蛇の目傘を透過する光の清潔さを、前ぼけに使われる大きな牡丹の花の紫色がモノクロに近い簡素な背景に与える強烈な支配力を、すべて計算づくの事としてこの映画が作り上げてしまったのかどうか、それすら悟らせないで最後無人の画面の静謐のうちに完結してしまう。簡潔に絞りこまれた97分という好ましい尺の中に、数限りないご都合主義をそれこそ分単位で詰め込みながらも、高い想像力の達成を示した一つの奇跡として私は楽しんだ。
『緋牡丹博徒花札勝負』は、ストーリーテリングのレベルで仁侠映画の骨法を乗り越えて見せてもいる。矢野竜子は、敵(かたき)の娘を守り、自分の名をかたった女の娘を守ったことで、父と娘あるいは母と娘が同じ運命をたどらない可能性を、因襲と義理とに縛られて身動き取れなくなることを基本構造にもつ任侠映画の中で大胆に提示している。葛藤から発生するエネルギーが最後逃げ場を失い、適切な処理をされないまま、観客に重たいものを残したまま完結する凡庸な映画は実に多い。そういうのは制作者の怠惰なのであって、問題作などという次元とは違うだろう。この映画には、自由な想像力を宿した映画のみがもつ開けた「天窓」があるのだ。
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