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[コメント] 人間の証明(1977/日)

長編の脚色は雄弁な省略を旨とし、秒単位の勝負になる。冒頭のファッションショーに時間を費やしたり枝葉でしかない第三者の死をこってり描く暇があったら、主要人物三人の背景にもっと厚みを持たせられなかったのか。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







たとえば松田優作が鏡に向け銃を撃つシーン、観客は彼のモチーフを理解しているが、今の観客は冷淡だから、こういった場合、彼のモチーフを理解できるはずもないアメリカの警官たちの視点に立つかもしれない。要は、現実にあんな場面であんなことが起きたら、起こした優作はキチガイ扱いで疎外されるだろうということだ。にもかかわらず、なぜかジョージ・ケネディは優作の自分に対する暴挙を責めるどころか、空港まで見送りに来てくれる始末。彼の理解力は超能力並だ。

たとえば、クライマックス、岡田茉莉子の独白、彼女は信じられないようなことを詩に仮託して満場の観客に話して聞かせる。現実にこんなことがあったとしたら、物語を知らない者は、まず何一つ理解できはしないだろう。にもかかわらず、独白が終わり、彼女が立ち去ると、観客は惜しみのない拍手を送る。これは何の拍手だったのだろうか? 訳がわからないがとりあえず礼儀でしたのだろうか? それとも、皮肉と背反のヒロイズムの捻出といった演出の意図が裏にあったのだろうか?

どちらにせよ、演出は意図を持ちながらも常に客観的な視座を欠いている。この頃の映画、特に角川映画にはこういった描写が多い。長編の原作つきが多いせいもあるだろう。全てを客観的に描くことを、尺が許すはずがない。どこかで、無条件に主要人物に偏向して見てもらうことを前提とした、ヒロイックで天動説的な語りとなる。自分は必ずしもそのことを非とは思わない。なかんずく優作が嫌いでない。しかし、ヒロイックで派手だが客観的に考えれば不自然なアクションに頼った演出、そんな演出に頼った映画がえてして人物を掘り下げられずに終わりがちなのも事実だ。

(評価:★3)

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