[コメント] 天空の城ラピュタ(1986/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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パズーは少年ではない。彼は男、なのだ。同様にシータは少女ではなく女、なのだ。
パズー、シータともロー(ミドル)ティーンと思われる設定だが、これは「性」の生々しさを隠蔽する目的によるものだ。しかし、彼らが年少である必要性は全くない。パズーはまごうことなきオトナなのだ。彼は少年の皮を被ったオトナなのだ。パズーの魅力は何といってもそのタフさにある。肉体労働に従事する身体的能力、仕事に対する集中力(これはドーラの飛空挺に於いても遺憾なく発揮される)、大人たちと渡り合えるメンタリティ・・・これらの能力は恐らく同年代の少年を遥かに凌駕している。少年とは思えない。
(補足)パズーとシータは我々の眼にのみ、少年少女として映っている。しかし劇中人物の眼にはある程度のオトナとして映っているのだ。
cf.ドーラの息子たちが見せるシータへの好奇心。まさか彼ら全員がロリコンなのではあるま い。彼らは少女でなく女、と見ているのだ。
パズーの冒険はラピュタに向けられた好奇心のためなのだろうか。否。パズーの脳内のウェイトはラピュタよりもむしろシータに置かれていたはずだ。「天空の城 ラピュタ」は彼の性衝動により成り立っているのだ。自らの生命を賭しても尚、シータを欲していたのだ。単なるラピュタへの興味だけだったとしたら、彼はどこかのシーンで墜落死していたはずだ。絶対。大団円の後、パズーとシータは間違いなく同棲を始めるだろう。半年以内にセックスするはずだ。彼はシータとしたくてしたくて仕方なかったのだから。
初めて会ったオープニングから、既にパズーの頭はシータで一杯だったのだ。何もない田舎町(オープニングでその小規模さが浮き彫りにされる)。同年代の友人や恋人の存在は一切示唆されていない。街から隔絶された一軒家での一人暮らし。むさ苦しい男たちに囲まれ、閉じた人間関係・・・『ギルバート・グレイプ』的な世界に彼は身を置いている。そこへ僥倖ともいえるシータとの出会い・・・もう頑張るっきゃない。
「天空の城 ラピュタ」は冒険映画の名を借りた、恋愛映画なのだ、ともいえるのではないだろうか。
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