[コメント] GO(2001/日)
私の実家の裏手に在日朝鮮半島の一家が住んでいる。北か南かは知らない。一家には同学年の男の子がいたがあまり一緒に遊んだ記憶はない。
自宅の半分を麻雀店、韓国クラブに使用していたので近寄りがたかったのかもしれない。
小学校・中学と別の学校に通い、より疎遠になっていった。しかし、高校でたまたま同じ学校になってしまった。大学付属の進学校で暴力とか非行とかには無縁な高校だった。
しかし、小さな井戸の中でも俗に言う「つっぱりグループ」のような集団は生まれる。彼もその一員に入っていた。
一時期、朝鮮学校の生徒たちと対立する事件が起こった。彼ら「チョン」と一戦交えるのだ。彼は皆に混じって「チョン」の奴等を口汚く罵った。一瞬私と視線が合ったが彼は無視をした。生徒の中で彼の素性を知っているのは私だけなのだ。
この時の私は心底、この男を「ダサイ」と思った。そうだ、この映画でいう「ダッセーイ!」は日本人が言わなければならないんじゃないか?
「恨みの教育」をする国と「避けて通る」教育をする国。どちらも悲劇しか生み出さないのは明確だ。
後日、彼の父親(半島から連行されてきた1世)が新聞で紹介された。 学校に通う機会がなかったその父親は夜間の中学で子供たちに混じって苦労の末に卒業証書を手にしたと。
幸いにも実家の近所では「差別」はなかったように思う。(たった一度だけ私の父親が三国人という言葉を使ったことがあったが・・・)
1世の父親が苦労の末に学んだ学問では朝鮮半島の問題や差別問題をどのように扱ったのだろうか?
それにもまして、新聞や夕方のワイドショーで報じられた結果、N君はその「素性」が明らかになってしまった。彼はそんな事「ダッセー!」と言うのか?それとも周囲の我々が、そんな事を新聞のネタにするなんて「ダッセー!」と言うのか?
やっぱり、我々が言わなければならないんじゃないか、「ダッセー!」ってね。
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