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[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)

「リリィ・シュシュ」こそが、彼らにとって、リアルだった。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画、一見沖縄のシーンを挟む3部構成に見えるが、細かくみると次のようになるだろう。

1:蓮見14歳(中学2年)全体を通してリリィへの愛が語られる。蓮見、リリィの新作を万引き。ピアノを弾く久野(まだ登場人物にはなっていない)。星野グループからのリンチと自慰シーン。蓮見、星野にリリィのCDを割られる。

2:蓮見13歳(中学1年)春。剣道部入部。1年の少年グループ結成。蓮見、星野からリリィの存在を知る。

3:蓮見13歳春。 星野の片思いあいてで、かつてリリィのファンであった久野登場。

4:蓮見13歳夏。 少年グループの西表島旅行。星野2度死にかける。旅人の死。

5:蓮見13歳秋。星野の豹変。剣道退部。

6:蓮見14歳(中学2年 春?)津田の援助交際シーン。

7:蓮見14歳(秋)学園祭での歌のシーン。久野の活躍。女子いじめっ子グループ 登場。

8:久野のレイプシーン。津田、佐々木との付き合いを断る。蓮見のリリィの「エーテル」の弱まりを語る。津田、蓮見からリリィの存在を知る。(既に蓮見はリリィの新作を持っていない。)

9:蓮見14歳(秋)。津田の自殺。蓮見の嘔吐。教師に星野にCDを割られたことを告げる。

10:蓮見14歳(秋)。リリィのコンサート。蓮見、星野を殺害。

11:蓮見15歳(冬)中学2年。久野の弾くアラベスク。

 1が後半のどの時点になるかは考察を要する。8の時点では既に蓮見はリリィの新しいCDを壊されてしまっているので1は8以前である。また7と8とでは時間的にはさほど開きがないことが判るので1は7以前でもあろう。したがって、1は7以前であるが、6の段階では蓮見は星野とさほどの亀裂がはいっていないと見れるから、6より後、7以前に1が来ることになる。したがって、1から6までが過去の回想シーンであり、7以降が現在での物語の進展ということになる。実際、1から6まで、ネット上のやりとりは、過去の回想といった形でなされている。リリィが中心的にネットで語られるのは、やはり1、そして7以降である。

 主役4人の中で、もっとも不可解なのは久野である。久野は星野にリリィの存在を教え、星野は蓮見にリリィを教え、蓮見は津田にリリィを教えるのであるから、久野がすべての発端だといってもよい。ところが物語の現在、今でも久野がリリィのファンであるかどうかは全く明らかではない。エンドロールを見ても、田圃の真ん中でリリィを他の三人が聴いているシーンはあるが、久野だけは聴いているシーンがない。ただ久野がリリィと共通性が指摘されているドビュッシーが好きなことはピアノ演奏から解る。「アラベスク」は久野の現在を表してもいるのだ。また久野が少なくともかつてリリィのファンであったということを星野は知っているが、蓮見は知らない。星野にとっても蓮見にとっても、久野は不可解である。

星野と蓮見のふたりの片思いの相手がこの久野であるが、少年ふたりは互いにそのことを知らない。二人にとって久野は不可解である。その不可解さは学園祭の挿話を通してさらに強まることになる。久野が唯一自己主張らしき振る舞いをするのは「坊主頭」によってである。物語の悲劇性がもっとも強く出たシーン。それゆえ、このシーンはこの映画でもっとも衝撃的なシーンのひとつになっている。

このように見ていくと「リリィ・シュシュ」は、彼ら相互のつながりの象徴でもあるのではないだろうか?星野の久野への、蓮見の星野への、津田の蓮見への。それゆえに、星野が蓮見のCDを割るシーン、星野が久野へのレイプを指示するシーンは象徴的である。少なくとも、沖縄旅行の以前、前記の2と3の段階では星野にとってリリィと久野は結び付いていたはずである。だが沖縄旅行以後、星野にとって「リリィ」はまったく別の存在となるべきものだった。また蓮見にとって、星野とリリィの結びつきが大きかったがゆえに、星野にCDを割られ(星野はこの時点では蓮見がリリィファンであることを認めたくないだろう)、星野がゆえに愛する久野(しかも蓮見がその仲立ちをしている)と津田が陵辱されたことは、吐き気を催すものだったといえる。蓮見はネットで「青猫」に同志として救いを求めるが、その青猫が星野であることが明るみになったとき、少なくとも蓮見のなかで「リリィ」の意味が変わったであろうと思われる。星野を殺害することで、蓮見は新しく「リリィ」を発見した、とも言えるのではないか。「リリィがいたぞ」という叫びは額面通り受け止めてもいいのである。

 久野が最後に弾く「アラベスク」は、新しいリリィを象徴している。このリリィには、かつてのようなエーテルはもはや彼にとってないのかもしれない。エーテルは汚された。だが最後の久野のピアノを媒介に、真のリリィに(少年たちがリリィの存在を知ったのはそもそも久野を出発点としてであった)近づいたのではないか?

 星野の殺害。否定的に捉えるひともあろう。ただひとつ明らかなのは、星野自身が自爆に向かって進んでいたということだ。「7つめの魂(だったかな?)」を彼は失ったということだ。西表島での出来事は、星野に新たなリアルを呈示していたに違いない。

 もう一人の主役である津田とリリィの関係は、ずっと短い。彼女はリリィを知ってからすぐに自殺している。それどころか、リリィのうたが彼女に自殺を選択させるきっかけにもなっているようにさえ思われる。リリィが星野に残酷にならしめるように、津田を自殺へと誘惑する。何れにせよ、津田にとってもリリィは「リアル」である。

 作品を通じて、少年たちにとっての「リリィ」の意味の変化が語られている。また登場人物たちひとりひとりにとって、リリィの意味は違う。だがこの「リリィ」こそが彼ら全員にとって「リアルなもの」なのだ。

 リアルはアンリアルがあってこそのリアルである。現実世界がアンリアルであるからこそ、彼らはリアルを求める。映画は、過去の意味を探究するあり方で虚構を構築する限り必然的にわれわれのいうとこころの現実性を持たない。岩井の手法も、そういった現実性を探究しているのではない。まったく理念上の「リアル」を探究する他はない。だが、この「リアル」が少年たちのうちでの差違を示しつつも、彼らの触れあいという接点をもたせるところで岩井の真骨頂が見られる。たがいに、アンリアルなものをあたえつつも、それぞれがリアルを求め続ける。ここにこの作品の世界の拡がりが見いだせるように思う。

リアルの差違と接点、ここに人間の苦難と救済が読みとれるように思う。

<追記> 小林の音楽については、あんなもんだと思う。設定に無茶がある。 この設定に見合った音楽をつくるのは、至難の技だと思う。 「リアル」という言葉は、いろいろ考えてみる価値はありそう。長くなって失礼。

(評価:★4)

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