[コメント] ビューティフル・マインド(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
*実在の人物を扱うことについて*
実話に基づくストーリーについては、いつも厄介に感じる。というのも、実際の話を忠実に再現しているかという評価軸がどこかで入ってこざるをえないからだ。
しかも「忠実に再現しているか」ということ自体もそう単純ではない。とりわけ一人の人間の伝記(半生記)である場合、その人のある部分を緻密に再現したところでそれはその人についてのほんのわずかな一部分にしかすぎない。一部分の描写がいかに緻密であったとしても、その一部分を根底から揺るがすような(またそこまでいかなくともその一部分とは異なる位相をもつような)別の側面が映し出されていなかったら、それを欺瞞と感じる人が出てくるのは避けられない。その人の事情をよく知りうる人ならその思いはなおさらだろう。私の見解では、どんなにくだらないとしか思われないような人間の一生や半生も宇宙並みに広く深いものであり、二時間と少しの時間の、角度の狭められた画と音程度でその人の人生をカバーすることなどできようはずがない。(極端な話、その人の一番近くにいる人がその人をビデオで何十年おったところでカバーは不可能であると思う。)その意味で必要以上にストーリーの実話再現性を追及し続けることは、それほど賢明な行為とはいえないのではないかと思う。その代わりに映画は一つ、もしくは複数のベクトルをもって、その人の人生のなかに眠る何かを提示することは可能である。
むろん、その人の人生の核心的な部分を描写していないと指摘すること自体を否定するわけではない。ただその指摘が有効性をもつ限度というものが、どこかしらかで存在する(といってもその限界は可変的だと思うが)のではないかと感じている。ナッシュのレイシスト的な部分や離婚経験などが省かれていることは、十分に考察の対象となりえるとは思う。ただ描写していないと指摘することそのものが、常に一般論としてまかり通るわけではないと考える。そして私はこうつぶやく、実話に基づくストーリーって煩わしいんだよなあ、でも実話に基づいていることで持ち得るパワーは否定できないしなあ。(コーエン兄弟の『ファーゴ』はそうしたパワーへの皮肉?)
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*ナッシュの症状の描写について*
これも賛否両論なのかもしれない。私は「分裂病」についての知識が薄いせいか(というか精神医学そのものが苦手)比較的好印象で受けとることができた。薬によって強引に消すのではなく、幻覚と苦闘しながら少しずつ共生の道を探っていく、言い換えるなら人間の精神性がもつ「治癒力」を活かしていく、というやり方は薬やショック療法で強引に「治していく(抑えていく)」方法へのアンチテーゼなのだと思う。(もちろん、私自身が投薬などの治療法を否定するわけではない、この話はたまたまそのやり方がうまくいった稀な例なのかもしれないことはふまえておかなければならないとは思う。)
このような受け売りの知識を持ち出すのは非常に危険かもしれないし、精神医学が苦手と言っておきながらなんだが、ある媒体において、精神医学の一説としてある種の異常行動は自分のなかの「歪み」を矯正するものとして登場する、と紹介されていたことを思い出した。もっともこの説がある程度の的を得ていたとしても、その「矯正」が人間の精神そのものを破壊してしまうようなものだったら現実面で何の役にも立たないかもしれないし、実際にそのような症状にあるひとを侮辱しかねないものでないとは言いきれない。ただし、本作においては。この説はかなりあてはまるものを感じる。人付き合いの苦手な彼が心の奥底で希求していたものは他者とのコミュニケーション(他者からの評価も含む)であったとすると、投薬をやめ幻覚を「消す」のではなく、幻覚に「立ち向かう」ことによって、長年の年月を経て少しずつ少しずつ彼の人間性は豊かなものになっていった。そう考えると、最後がノーベル賞受賞のスピーチであったとしても、それほど違和感はない。幻覚が最後まで消えなかったのは私には納得であった、あれほど騒がしかった彼らがあれだけ静かにナッシュのスピーチを聞いていたではないか。
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*研究者としての立場、教官としての立場*
歴史研究が専門だから数学や経済学理論などを見ると気絶してしまいそうな、不甲斐なくも修士課程で研究者の道を途絶させてしまった私にですら強く感じいったのは、ナッシュの学問に対する姿勢である。
学問の道でメシを食っていくには、ただただ研究者としての研究能力を磨いて知見を深めていくだけでは次第にたちゆかなくなってくる。(歴史研究じゃなかったらひょっとするとたちゆくのかもしれないが…)研究者は研究の内容だけでメシを食っているのではなく、例えば大学で講座をもったり、ゼミ生を指導したり、学生に何かを授ける教官としての教える能力が大事になってくる。ときに研究者は、研究を阻害する要素としての教える立場を煩わしく感じることがある。ナッシュは研究者として優れすぎたがゆえに(均衡理論はよくわからないが)、それが極端な形で現れた。
しかし、老いてからのナッシュが若い学生と触れ合う光景、これは教官として学生に何かを授けることへの喜びを彼が見出した瞬間であった。研究者としての立場と教官としての立場、この二つがうまく調和してこそ、学問を取り巻く環境が豊かになっていくのだということを改めて強く感じた。そういえば私の学部生時代からの恩師は、二つの立場のバランスのとり方に苦慮しながらも、そのことへの喜びも同時に感じていらっしゃただろうし、そんな師の態度を私は尊敬し、師のもとで学ばせていただいたことを誇りに思った。ナッシュも教官としての立場の喜びに気づくことではじめて、学問的に畏敬される存在になりえたのではないだろうか。(その点で、論文の本数や評価のみで教授の質を決め、大学ごとにランキングを決めていくやり方には賛同しかねる。二年や四年そこそこしか学ぶ機会のない学生が求めるものは、むしろ教官としての質ではないだろうか)
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*総合評価*
こんないわゆるハリウッド的な作品に高評価をくだすとは自分でも夢にも思わなかったが、全体に漂う「嘘臭さ」「うさんくささ」(←5点に届かない要因にはなっている)をつきぬけて自分の感性を活発化させてくれた本作には、素直に賛辞を贈りたい。様々な問題事象にまたがる納得の作品だった。
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≪以下、随想≫
・"mind"は大抵真っ先に「心」という訳があてられる。しかし大学受験時に、とある私塾で教えてもらったのは、"mind"は「心」というよりは「頭」「頭脳」というニュアンスで、"heart"が胸のなかの熱い「心」と捉えたほうがよいということであった。辞書をよく見ると、"mind"が「理性」「知性」「記憶」など人間の理的知的な部分を現す単語であり、"heart"が「心情」「愛情」「同情心」「勇気」などの人間の感情的な部分を表す単語であることに気づく。(そういえば「熱いハート」とは言っても、「熱いマインド」とは言わない。)本当はどちらも脳ミソで感じ考えていることで、そもそも人間の理性的な部分と感情的な部分をきれいに二分することはできないのだから、「心」というのはあながち誤訳というわけではない。しかし、全体の構造やナッシュが脳で感じ考えたこと、そしてアリシアの台詞などを思い起こすと、本作は"mind"と"heart"とのせめぎあいだったようにも思われる。(「ハートが半分」「ハートが大切」などなど)都合よく解釈するなら、「マインド」がビューティフルであることを信じ続けさせてくれたのは「ハート」のおかげ、両者が満ちることにより人間性が豊かなものになっていくということだろうか。(とはいえ、英語は苦手だし、ネイティブスピーカーはどこまで使い分けているかも不明で、また他にもせめぎあう単語があるかもしれず、ご指摘いただいたら幸いです。)
・昨年、資料収集でプリンストンを一日だけ訪問したことを、あの大きな門が映し出されているのを見て思い出した。あれって東大といえば赤門ってぐらい、あちらでは有名なんですかねえ。
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