[コメント] ビューティフル・マインド(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
僕にとって、この映画で描かれているナッシュは、単純な意味での「狂気におかされた天才」ではない。
「研究」を職業として生きていこうとする人間の中には、彼のように実社会への適応に困難を感じている人が多いと思う。かくいう僕もその一人かもしれない。少なくとも、そう「感じている」。無論、彼のような超絶的な能力はないし、波乱万丈の人生を送っているわけではないから、到底比較はできないが。
ナッシュにとって不幸だったのは、自分が実社会からずれていることを強く自覚しており、それが彼を苦しめたということ。彼は、自分の性格が(例え病におかされていなくても)一般社会にとっては「変人」として見られること知っており、そのことにコンプレックスを抱いていた。エド・ハリスに「スカウト」され、MITの近くを彼と一緒に歩くシーンでの彼のセリフからそれは読み取れる。
そしてこの気持ちが、翻って「研究」への悲しいまでの情熱をもたらした。
最初の方のシーンで、教授から警告を受け、取り乱した彼が「親友」と、机を窓からほうり投げるシーンがあった。その直前、彼は友人に対して、「僕にはこれしかないんだ」と言う。
後半、療養中のナッシュの元へ訪れた研究仲間が、「人生、研究(work)以外にもいろいろあるさ」と励ます。その時、ナッシュは、「いろいろって、何かな(What are they?)」と静かに聞き返す。
「自分にはこれしかない」・・・この悲しい心の叫びに共感できるかできないかで、随分とこの映画に対する見方は変わるように思う。自分が唯一よりどころにするものへの情熱が、自分を病へと追いやり、そしてそのよりどころ自身の信ぴょう性を壊していく。自分が唯一信じられるものが、信じられなくなっていく。
また、そういうナッシュの苦しみに共感すると、アリシアが寄り添ったという事実に奇跡を感じる。最後のスピーチに感動させられるのも、同じ理由からだ(ナッシュ均衡解などのゲーム理論の概念を知っている人には、別の意味でも感動があるだろうが)。
人間の人生および人の心の持つ不可思議な「可能性」を見せてくれたという意味で、僕はこの映画に感謝したい。
この映画に関しては、事実を変えすぎているという批判がある。純粋に伝記的映画を求めた人にとっては、そういう批判はごく当然なものだろう。
ただ、僕個人としては、伝記の原作者がインタビューで答えていた考え方を支持する。それは、ナッシュという人物の人生を描くとしたら、「何が彼の人生に最も影響を与えたか」という点から描くものをピックアップしなければならない。人の人生をたかだか2時間ちょいにまとめるのだから、それはある意味当然だ。そしてそれは、「統合失調症」にかかったことと、アリシアとの出会い、になる。
さらに、いえば「真実」通りの伝記映画にした場合、おそらくこれほどまでにいはヒットしなかっただろうし、研究によってナッシュの理論に親しみのある人以外がわざわざ映画館まで見に行ったどうかはわからない。そうなれば、ナッシュという人の希有な人生、そして人間の心が見せる奇跡(A Beutiful Mind)の物語は知られずに終わっただろう。事実通りの映画が、この映画のメッセージを伝えられたとは思わない。
アリシアの離婚(これを単に「見限ったから」と見るのは間違い)や、ナッシュ自身の性質、また息子との関係などを知った後でも、僕のこの映画への評価は変わらない。
エンドロールが始まって、しばらく立つことができなかった。
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