[コメント] ブラックホーク・ダウン(2001/米)
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この物語が描いた悲劇の本質はどこにあるのか? 政治情勢や歴史背景といったものからもう少し踏みこんで、普遍的な問題として考えてみた場合、本作は人間が自らうちたてた理念に首をしめられながら、なおもその理念にすがらざるを得ないという業を描いたものと言えないだろうか。
「米国はたった一人の人間も戦場に置き去りにはしない」という理念がある。つまり自分たちは平和を守るために戦っているのだ、ということの証しをたてるために、敵を殺すという戦闘行為の源流には、兵隊と兵隊の家族の平和な生活=家庭がある、というそのつながりを断固として守り抜こうとする。軍隊の戦闘行為と家庭生活は隔絶した異界ではなく、いつでも兵士は家庭に戻ることができる。実際にそれは100%は不可能だし、戦場に行ってみたらそんなことは180度違うのだろう、と、わかっていても、でもそう考えてみる、それが「理念」だ。それに基づき行動することで、国家と兵隊は互いに信頼関係を築き、互いを成り立たせていく。そこが出発点だから「やめられない」のだ。余談だが、最初から「家のために死ぬ」という侍やかつての日本人の理念とは違うものだ。
「たった一人の人間も戦場に置き去りにしない」という理念が故に、ヘリから墜落した一人の兵隊を「必ず救出する」ところから始まって、救出に向かった兵隊が次から次へと襲撃され、今度はその彼らがもはや遺体となっていようとも、またもや彼らを連れ帰そうと犠牲を繰り返していくという連鎖地獄。高潔な理想とそのあまりなドツボぶりは悪質な冗談のようだ。その悪循環をわかっていても、その場の趨勢が「やるだけやった」と納得できるほどに被害が甚大になるまではきっとやめられないのだろうな、という自縄自縛を思わざるを得ない。
理念そのものは立派であり正しい。だからこそ業なのだ。映画「ブラックホークダウン」の表現の大半は、泥沼にはまっていく米軍の混乱も、恐怖や怒りで麻痺した理性がもたらす(米兵から見た)ソマリア人の狂気も、一種どうしようもないではないかという、人間の業を表現せんがため筆致の限りを尽くしていると見るのが一番自然に思う。あるいは人間が自らを守るために生み出したシステムを支える為にシステムの犠牲になると言ってもいい。本作が暴力を独占したい米側に片寄った見方であるというのは、それはそうだとしても、それ以前に、仕上がったものを見ればこの作品はそういう業のことを語っているはずなのに、そことは違う結論にたどり着いてみせる。
「俺は仲間を助ける為にそこへ戻る」と。そりゃ個人の問題に置き換えればそうだろう。が、本編の主張の構成比でいえばほとんどそんなことは些細な割合でしかない。あくまで問題の大半は「人間の考えた仕組み」の問題だと言っているんじゃないだろうか。描いていることとテーマが違う。テーマが捻じれている。
捻じれた原因が、誰ぞの意図なのか、単なる混乱なのかはわからないが、この問題を、信念に基づく使命感や、人間の生きていく意義とか、仲間との信頼や絆の証とか、そういうふうに観客に思ってもらえれば、「誰か」あるいは「何か」にとってはきっと好都合だろうなあ、とそういうふうに思ってしまう。
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