[コメント] 鬼が来た!(2000/中国)
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実際に戦争がどうとか、事実がどうとかであることは、作品がリアルな表現であればあるほど、虚構性を増しているように思う。映画に登場するそれぞれの国を、そのどの国も擁護せずに、淡々と史実を語るかのように描くことにより、この映画は戦争の狂気という「鬼」を浮かび上がらせる。
「鬼が来た!」、というタイトルが表す鬼とは日本人を表すものではない。 顔も姿も表さない「私」という鬼なのである。名前とはその者の記号である。その名前の無いものは人ではない。鬼というのは人間を狂気へと導く魔のように思える。魔がこの村に不幸を招いたのである。招いてしまったマーも、目に見えた仇を討ち果たすことなく、その仇の刃に果てる。これは偶然ではなく、劇中にあるように呪いを受けたのだ。それゆえに、花屋たちを殺さなかったことにより、愛人の腹の中の子は免れたであろうと思う。
この映画は怪奇映画にも近い味わいを示す。逢う魔が時、という様にマーは鬼に魅入られ、村に狂気の種を招きいれてしまった。そしてその狂気の種はマー自身の狂気で幕を閉じる。
しかしこの「鬼」を諸悪の根源とした事に、この映画は戦争映画としての主張を失うことになる。この映画は何を主張したいのか?なにも主張はしていない。
つまるところ、実際に戦争というものを知っている人間は、敵を殺したことによる国や国民からの賞賛を誇る。あるいは被害を敵から受けた者は憎しみをあらわにする。そして戦争を異常な状況とし、良心の呵責を問うなど、 あくまでも自分が経験し、思ったことの記憶でしかありえないのである。だからそれは一方的な表現にしかなり得ない。個人を殺傷し、あるいは加害者を許すことに関しても経験した個人においての思いなのである。そこに主張が生まれる。全世界、言ってしまえばすべてが他者同士なのだから。
この監督は戦争を知らない。ちなみに私も知らない。 悪とする対象を国や他者にせず、鬼という魔の概念に人間がそそのかされたとし、しょうがなかった、とする事が戦争を知らない者の処世術なのであろうか?主張することが無ければ争うことも責められることも無い。そして理解されることも無いのである。中国政府がこの作品を否定したことに、国としての主張を感じて好ましい。こんなしらけた作品は許さない、という。
戦争経験のない人間が公正な立場で戦争を描いたこの作品には、体感ゲームの様に戦争を疑似体験するかのような感覚をおぼえる。そこにこの映画の主題を持たせたのであれば、すごい事だがそうは思えない。結局のところ、戦争を経験していない研究者が、資料を基に主観を伴わないルポを映画として表現した、というところである。演出力、俳優陣等はすばらしい。この監督は戦争映画など撮るべきではない。
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