[コメント] チャーリーズ・エンジェル フルスロットル(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
前作の路線をそのまま踏襲した、「アレコレ考えずただ楽しめばいいバカ映画」である。前作との違いを強いて挙げるならば、今作においては「過去」が前景化されている点であろうか。ディラン(ドリュー・バリモア)の初恋の相手は、第一級の殺人者集団の頭目として、いわば過去の亡霊として彼女の前に回帰するし、前作にも登場したやせ男(クリスピン・グローヴァー)もまた、孤児として育てられたトラウマを抱えている。往年のエンジェルとして登場するデミ・ムーアは、3人のエンジェルたちの現在時における関係性を脅かしにかかる。
たとえば、3人が溶接工に扮するシーンでは「フラッシュダンス」のテーマが流れ、スプリンクラーの水飛沫のなかを3人が闊歩するシーンでは当然のように「雨に唄えば」が流れる。この、MTV的な引用と教科書的な引用とを並置する手つきに見られる、オマージュやパスティーシュなどといった高尚な概念とは微塵も縁のない「志の低さ」は、過去にまつわるトラウマの物語を扱う手つきの安易さと、きっと無関係ではない。さらに、頻出する80年代MTV的意匠とディランの「物語」を、ドリュー自身の過去(子役として脚光を浴びた幸福の80年代とドラッグと男に振り回された不幸な90年代)と重ね合わせることも可能だろう。ディランの戦いは、またドリュー自身の過去の亡霊との戦いでもあるのだと。だが、その亡霊はトラウマの克服などという重苦しい儀式によってではなく、ロス・「エンジェルス」ビル屋上で繰り広げられるワイヤー「アクション」によってあっさりと(唯物的に)退治されるべきものであることを、この映画は知っている。それがまず何よりも重要なのだ。
この映画における引用の手つきと、登場人物にまつわる過去を扱う手つきに共通しているのは、それがどちらも「現在」という時間を輝かせるための「手段」としてしか機能していない点だ。引用のテクスチュアは映画史に捧げるオマージュとは決してなりえず、過去との訣別は決して未来への展望を開くものではなく、亡霊の退治がもたらすのはカタルシスではなく、アクションの潔い快楽である。すべては徹底して「現在」という時制におけるスクリーンの煌びやかさに還元され、ハリウッド大通りに打ち上げられる花火として一瞬に明滅する(3人のコンビネーションアタックによって拳銃を奪われたデミ・ムーアが、次善の策(「プランB」)として用意するのが時限爆弾というのも、双方ともに逃げ道のないビル屋上というシチュエーションを考えれば不自然きわまりなく、これはやがて来たるべき大団円の花火のために用意されたものと考えるのが妥当だろう)。ナタリー(キャメロン・ディアス)の結婚話ですら、3人の現在時における幸福なパートナーシップを未来から脅かす(かも知れない)桎梏でしかなかったことにも留意しよう。すべては「いまここ」における3人の幸福な関係がいつまでも続けばいいという夢想へと、永遠に続くべき現在の「何もなさ」とそれゆえの「かけがえのなさ」へと捧げられる。エンジェル役に前作と同じ3人を起用したのも、その意味では必然なのだと言える。
過去の亡霊からも、未来の桎梏からも遠くはなれ、現在という時制における徹底した「何もなさ」を引き受けること。このシリーズに対する「アレコレ考えずただ楽しめばいいバカ映画」という評価はもちろん間違ったものではないが、そのバカ映画を成立させるには、それなりの真摯さと想像以上の過酷さが要求されるのかも知れない。その過酷さに耐えうるのは、それを過酷なものと「知っていながら知らないふりをする」アイロニーではなく、記憶や過去やそれに引きずられた情念の物語をなし崩し的に吹き飛ばす笑いとアクションである。ここにおいては、ディランとやせ男とのトラウマを抱えた者同士の「情念の愛」は決して成就せず、いささかも過去を想起させないその潔い存在感において、他の二人を圧してあまりあるキャメロン・ディアスの怪物的な笑いが際立つことになる。アイロニーや情念はスクリーンに映らないし、この映画には「笑い」があふれている。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (5 人) | [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。