[コメント] 座頭市(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
私は大好きなのだが、押井守の原理主義者以外は軒並み低評価な『立喰師列伝』という全然関係ない作品があって、詳細は割愛するが大体こんな主旨のナレーションが入る(もっとも映画の9割がナレーション)
「およそどのような光景であれ、その光景が燦然と光輝を放つのは、それが瞬時に消失し、ただそれを目撃した者の脳裏に鮮やかな残像として宿る時である。その記憶を補強し、時に事実以上の輝きを引き出してみせことは言葉によってのみ可能となる(中略)自らが演出し、つかの間出現した景色を瞬時に隠滅することで、こと、その景色に関する限り、ほとんど無制限とも言い得る言葉の力を己の中に留保してみせたのであろう。それはテキ屋のタンカ売に通じるものであるが(中略)この術中に陥れば、彼の説くところは単純にして明快な真理そのものであり、それゆえに説教たりえたのである。」
説教やら言葉云々はともかくとして、これらの言葉を「映画」という単語に置き換えてみると、本作の映画的な美しさの形を示す一つの理解が立ち上がる。すなわち、力強く描き殴られた「光景」を瞬時に消失させて目撃者の脳裏に残像として刻み、事実以上あるいは事実や理由を無視した「強さ」を現出させるのである。積み重ねられたカットの一つ一つは、相当にいかがわしい。灯籠をぶった斬ったり、刀を放り投げて納刀したり、竹槍を縦にまっ二つにするショットをこれみよがしに長回しで撮ったとしよう。ひどく間抜けで非現実的ではないか。これを一瞬で隠滅して積み重ねる編集により、非現実感よりもその異常な強さが先行して焼き付けられる。目にも止まらない市の強さは、ぬらりとした静から動への瞬間移動、まさに居合いという「瞬発力」が命なのであって、この正確な理解を北野武は上記の手法と結びつけ、リアル以上の「強さ」を我々の脳裏に焼き付けた。
テキ屋のいかがわしい映画なのである。あらゆる根拠は薄弱である。しかし、この映画のアクションは突っ込みを許さない。人の脳がアクションを強靭に補強する。それはポジティブな捏造である。タップダンスのシーンを含め、スクリーンの中では「見える」事実以上の事象が起きている。もはやアクション映画の鑑と断言してもいい。
北野武がカッコいいなんて思う日が来るなんて。思ってもみなかったよ。
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