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[コメント] 黄泉がえり(2002/日)

たとえば、殴打と投擲にて愛を語る。映画人・塩田明彦の頼もしいバランス感覚。
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







死んだはずの人間がよみがえる。自分を想ってくれる人の前に、ある日とつぜんあらわれる。このファンタジーが、(映画の中でのみ通用する)とりあえずの「現実」として受け入れられてゆく、その過程を演出する手つきには相当慎重さが必要となるはずで、数十年前に森のなかで遭難死した少年がよみがえり老母のもとを訪れるという、民俗的な古層の記憶を刺激させもする冒頭のシークエンスはその意味ではよくできていたし、いじめを苦に自殺したはずの中学生(市原隼人)が葬式の場に姿を現すシーンはとても素晴らしいと思った(とりわけ、オカルト的演出をいきなり中和してしまう長澤まさみの存在感が!)。三年前に死んだ亭主が寡婦(石田ゆり子)のもとを訪れるところは、それを演じる哀川翔の本気度が非常にホラーで、そもそも「死者がよみがえる」という設定がホラーのそれであったことを想起させてもくれる、これはこれでまた別の意味で秀逸な場面。ただ、哀川兄と他の登場人物との温度差があまりに激しいため、そのギャップに笑えてしまうというちょっと異様なシーンでもあるのだが。一点、山本圭壱が死んだ兄(東新良和)に遭遇し感涙にむせんで抱擁するシーンだけは頂けなくて、なぜこうも安易に抱擁などさせるのか、しかも抱擁の仕方もはなはだ不恰好で、山本圭壱が知恵遅れの同性愛者みたいに見えてしまった。

と思っていたら、物語の主旋律をなす、主人公(草なぎ剛)とヒロイン(竹内結子)との関係にあっては、抱擁はおろか身体的な接触が一切行われないではないか。それはクライマックス、二人が野原で逢瀬するシーンにおける「果たされない抱擁」の演出からも明らか、この抑制された演出というか、禁欲的な姿勢が何に由来するものか、ベタベタに感傷的な物語を持て余すことなく完璧に伝えきる努力を維持しながら(職人性)、映像レベルでの感傷性は排しマテリアルな美学に徹する(作家性)、このバランス感覚に俺はイヤらしい折衷主義ではなく、まっとうな頼もしさを感じた。

よくよく考えると、二人の間で直接身体的な接触があったのはお互いを殴ったときだけ、というのもすごい。彼らはお互いの感情を、殴るというアクションによって表現する。あるいは、何かを投げることによっても表現する。たとえば草なぎの「お前ほんと色気ねえな」という言葉に対し、竹内は笑いながらぬいぐるみを「投げる」。竹内のかつての恋人(伊勢谷友介)を介した美しい三角関係が具象的に映像化される、浜辺の長回しワンシーン=ワンショットは、伊勢谷がフレームの外から草なぎに缶コーヒーを「投げる」ところから始まり、竹内との結婚を前に逡巡する伊勢谷の胸を草なぎは檄を飛ばすように軽く「殴る」。やがて反転するカメラが海を捉えるとき、2人に新たな1人(竹内)が加わり「キャッチボール」が始まる。その美しいやり取りはどんな饒舌よりも雄弁に何かを物語る(もちろん、山本圭壱らの大根演技などよりはるかに)。

だから山本と東新の兄弟による別れのキャッチボールは、饒舌や過剰な演技がかえって取りこぼしてしまうであろう何かを確実に救った。ところでこのシーンを、セリフこそ排除したものの、お得意の長回しワンショットを用いず、兄弟の表情をよくとらえたバストショット切り返しによるややもすれば説明過剰とも取れる演出にしたのは、これもまた折衷主義的なバランス感覚のなせるわざだろうか。

たとえば、田中邦衛×忍足亜希子×伊東美咲による親子三人の再会劇でホームドラマ的欲望を満たし、柴咲コウの劇中歌で電通マーケティング的ニーズに応える手つきに「商業主義へのすりより」を読みとってしまうのも、あるいは逆に、全国公開メジャー作品という大舞台にまんまと作家性を盛り込んでしまう手つきに「商業映画に対するインデペンデントな抵抗の様式」を見てしまうのも、同様につまらない。そもそも映画とはこうやって、立場の異なる様々な人間の欲望を折衷しながら作られるものなのではないか、という当然といえば当然の認識に、ごく忠実に従っただけではないか。その当然さをまっとうできる才能に、すなおに感動した。

想念が死んだ人間を実体化させる。ホラー的ジャンル様式に依拠しているものの、つまりこれは『惑星ソラリス』的オハナシであるわけで、実際タルコフスキーを思わせる火と水の遊戯(病室の窓に滴る水滴、情念を押し流す豪雨、バースデーケーキに立てられたロウソクの火)がいたるところに、またたとえばクライマックスにおける、延々と連なる自動車渋滞の列はゴダールウィークエンド』のそれ。しかしそれが単なるシネフィル的目配せに終わっていないのは、動かない自動車の連なりが形成する静的な空間を、草なぎと竹内が唯二人縦横に駆け抜ける、という静と動の鮮やかなコントラストの演出としてきっちりと昇華しているから。実際、タイムリミットが刻々と迫るあのシークエンスにあっても、二人は果たして再会できるのかというサスペンスがいささかも発生しないのは、もちろん柴咲コウの歌が終わるまでこのシークエンスが続くのであろうという予定調和的な予断が観る側に働いているからでもあるのだけど、空間が、あるいは時間さえもが静止しているかのような錯覚がそこに演出されているゆえ、二人の想念が「走る」という具体的な運動として、止められた時間のなかををただただ縦横無尽に駆けめぐるさまがフィルムに焼きつけられ……いや、お見事、の一言に尽きます。

(評価:★4)

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