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[コメント] クローズ・アップ(1990/イラン)

frame up, close up! (でっちあげ、肉迫せよ)
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画には二重の嘘がある。第一に物語の嘘。どのような出来事であれ夢物語であれ、映画は原理的にはどのようなお話でも好きなようにでっち上げ語ることができる。第二に、映画というメディア自体が原理的にかかえる嘘。フィルムに収められたものをスクリーンに再現前させることによって、それがあたかも現実であるかのように錯覚させる装置=メディアとしての嘘。私たちは意識的であれ無意識的であれ、つねにそのような嘘を括弧入れし、積極的に錯覚に身を委ねることにより、映画を、そして物語を楽しんでいる。

この映画は、ある青年が映画監督マフバルマフの名を騙って一家族に接近し、詐欺をはたらこうとしたという実際にあった事件をモチーフにとり、しかもその事件の当事者本人たちを登場させるセミドキュメンタリの手法を用いている。青年を家に出迎えた家族たちの証言や、裁判所での青年の証言を通じて、ありふれた詐欺事件の犯人に「ごく普通の映画好きな、しかし貧困にあえぐ青年」という肉づけをほどこし、さらに周到にも、監督マフバルマフ本人を登場させ青年と対面させることにより、「お涙頂戴モノ」のお話にまで仕立て上げる。ここには上述した二重の嘘がはっきり刻印されている。セミドキュメンタリという手法の嘘と、物語ねつ造の嘘。

そして例の「壊れたマイク」は、監督みずからが作り上げたその二重の嘘に対してノイズを混入する、これもまた監督がでっち上げた(フレーム・アップ)嘘である。一人の青年の素っ気ない「現実」が、「貧しい青年が救いを得る物語」という嘘に回収される寸前に、雑音をまぎれ込ませ、ひいてはそのような嘘を生産する装置=メディアとしての「映画」の自明性を揺るがし、見る者を攪乱させる。いまここで語られている物語は嘘なのか本当なのか? この仕掛けが本当に凄いのは、抽象的なノイズではなく、具体的な音響のそれとして実際に見る者の耳を揺動させ、自らの立ち位置を動揺させるところにある。私たちはいまどこで何を見ているのか?と。その瞬間生じる空白に、キアロスタミは肉迫(クローズ・アップ)する。

物語=嘘が提供する「癒し」はえてして、そのような「癒し」を必要とする(過酷な)現実を補完してしまう。それは現実を忘却させ、そしてそれゆえ現実を変革する力と意志をスポイルしてしまうから。だからキアロスタミは、物語=嘘を提供しながら、同時にその嘘を現実であるかのように見せかけてしまう、映画というメディア自体の嘘、その功罪を、自ら嘘をもって私たちに問うているのだ。物語に涙を流しつつ、同時にその流す涙の自明性が揺るがされる、その瞬間に味わうことのできる奇妙な興奮。そのような得難い興奮を与えてくれるキアロスタミの、映画への限りない愛ゆえの「厳しさ」に、私は胸を打たれる。

(評価:★5)

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