[コメント] クジラの島の少女(2002/ニュージーランド=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
マオリ族村落世界の活力回復のための伝統回帰という図式には甘い腐敗臭が漂う。トリックスター的な役割を担う主人公の少女の造形にしても、その少女が族長の血筋に連なる者だという設定にしても、相当保守的な作りであることは否めない。
クジラの救済・女性後継者の誕生と、一見エコロジカルでフェミニスティックで今日的な題材を扱っているように見せかけられているが、映画の世界では何回も使い尽くされた世界回復の手法である。これに新味があるわけはない。
この映画の中の村の課題はおそらく凡百の社会という社会に存在する陳腐な課題である。すなわち後継者育成。停滞の始まった社会に必ずでてくる課題の筆頭に挙げられる課題といえようか。
島国国家のダイナミズムの幅の狭さは、我々日本人にはよく分かる。
他者の存在がよく分からないから、いつまでたっても他者から小突かれまわされ続けていても抜本的な対応が図れない。その象徴がこの映画の中でおける祖父だ。わが国の平均的国民性もこの祖父と大同小異とも思うが、それにしてもこのようなカリカチュアを見せ付けられることは憂鬱だ。
それでは、テーマ・作り・世界観すべてが陳腐で退屈なこの映画を、それでも楽しめた理由は何なのか。答えは二つしかなさそうだ。
それは、顔と風景だ。ニュージーランド先住者の顔が実にいい味だ。私は初物が好きだ。主人公の少女、こんな顔を初めて見た。彼女に限らず、ほとんどの役者の顔が、いい。
また、海原の描写が素敵にいい。
谷川俊太郎は「水を一つと数えよ」といった。雲や霧も含めて世界中の水はつながっている、だから、水は単数形でしか存在しないというメッセージである。島国社会の閉鎖性をあざ笑いつつ、まわりを取り囲む世界で最もオープンな存在としての海=水。このコントラストの妙を楽しんでください。
少数民族の映画とは、それだけで斬新さをもつということがある。しかしその斬新さはおそらく長続きしないだろう。これが、この映画を見た私の教訓である。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。