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[コメント] デッドマン・ウォーキング(1995/米)

ティモシー・マクベイ(オクラホマ・ボマー)の死刑執行カウントダウンの嬌声にめまいを覚えた人はレッツ・レンタル。
カフカのすあま

この映画には直接関係ないのだが、21 世紀という「未来」が現実になった 2001 年、アメリカでティモシー・マクベイの公開処刑が行なわれた。このニュースはリアルタイムで地球を駆け巡った。

死刑執行時刻が近づくとともに始まったカウントダウン、視聴者限定の死刑執行「ナマ放送」の存在、「いーやっほう!」という嬌声、飛び上がって<彼の死を>喜ぶ<遺族>の姿を見たとき、ある違和感を感じたのは私だけではないはずだ。

人が、人の死を待ち望むことが正当化されていいのだろうか、と。

死には死を、という報復の図式は泥沼の中のキャッチボール。どんどん深みにはまるだけ。そこには解決の糸などない。なのに、誰かの命が消えることを短絡的に喜ぶ大衆。冷静に、客観的に眺めるとその「おかしさ」が見えてくる。

でも一方で、地下鉄サリン事件の主犯・首謀者を死刑にせよ、という理論が理解できてしまう自分もいる。あれは、オクラホマ・ボマーと同じく、多くの国民が経験した<恐怖>。だから「なるべく苦しい方法で殺してほしい」という遺族の声には感情的に頷いてしまう。

ヨーロッパでは死刑執行が廃止されて久しいが、アメリカや日本では死刑制度は継続されている。賛成・反対、いずれにせよ、それが成立している国では答えは簡単に出ないだろう。というか、答えを出すためには、もっと議論を重ねなければならない。

だから監督のティム・ロビンスは、死刑制度がまだ成立している国で、彼にできる最大限の表現方法で、死刑執行の周辺を描いたのだと思う。簡単に是非を問うのではなく、観る者に問いを投げかけるかたちで。

キリスト教はときとして偽善的に見えなくもないんだが(悪く取らないでください)、感情を捨て、理性のみで善く生きようとするシスターと、救いようのない罪を犯した死刑囚との対比からは、いくらでも哲学的、つまり人間一般に普遍的な問いがみつけられる。

そして問いを受け止めるのは、一人ひとりの個人であり、そこに答えはない。考えるきっかけを与えることも、いま、映画にできることの一つではないだろうか、なーんてことを考えた。結論は得られない、でも重い映画。

(評価:★4)

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