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[コメント] 告白(2010/日)

ある共通前提を絶対化し、思い込み行動する人たちの悲喜劇??
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







昔学校で教えていた時、生徒のことがわからないことが多かった。理解できそうなところで、するっとすり抜けていくような、そういうもどかしい感覚になることが多かった。

最近生徒のブログを発見し、読んでみて、ようやくあの時何を考えていたのか、とかがわかったような気がする。やっかいな生徒だと思っていたが、ブログを読む限りそんな印象は受けなかった。ブログを読んで、もどかしい思いを抱えた当時の自分がなんだか懐かしく、いろいろ思い悩んでいた自分が滑稽なようにも思えた。

「理解できるはず」という前提に立った途端、理解できないこと自体が「問題」となり、解決すべき事柄となる。何を考えているかよくわからない子どもたちが問題化され、子どもたちの心の闇が語られるようになる。大人たちの不安がどんどん増していき、子供たちが大人たちにとって「モンスター」となる。ここで重要なのは、子供が本当にモンスターであるのかどうか、という実態自体とは別に、大人の側で子供がどんどんモンスター化されていく、という事態である。それは「実態」と「思い込み」がずれていることが生じることだと思う。ある前提を絶対化し、そこから物事を始めると、問題になることがあると思う。

この映画ではそのようなある前提から生じる思い込みがどんどんと増幅していく、思い込みの連鎖がきわめてうまく描かれていると思う。

牛乳にHIVに感染した血が入っている(からエイズに感染したはずだ)という「思い込み」から始まり、子供を理解しなければと「思う」親が子どもを殺そうとして殺される。子どもと絶対に心が通じ合えると「思う」新米教師。親は僕のことを愛してくれているはずだ、思う子ども。そのような「思い込み」が結果的にどんどん悪い方向へと向かっていく。

松たか子はそのような「思い込み」をきわめてうまく利用する。もしかしたら松たか子は最初、「子どもを理解できるはずだ」と思っていたのかもしれない。しかし理解できた、と思っていても、実際は理解できたと思っていると思っているだけだ、と思い、前提を疑い始めたんではなかろうか。彼女の行動は、ある前提を信じ、そして裏切られたことから生じた。その点で、松たか子もまたその前提から自由になっていない。彼女もまた、思い込みに基づいて行動する登場人物たちと同類なんではなかろうか。

「親は子どもを愛している」「親は子どもを理解できる」「先生は子どもを理解できる」というような従来からの「共通前提」から物事を始めていくと、その前提から外れる事態はすぐに問題化され、こちらの不安が増大していく。不安は様々な思いを生み、増幅させていく。そのような悪循環から逃れるには、共通前提を絶対化しないことかもしれない。例えば、理解できない子どもを理解しようと必死になり挫折しモンスター化するのでもなく、また、理解できないからあきらめる、松のように復讐を始めるのでもなく、理解できない子どもと理解できないままどう向き合うか。そのような態度なり方法が必要なのかもしれないと思った。

つまり、何が言いたいかというと、この映画は、ある共通前提を絶対化し、思い込み行動する人たちの悲喜劇、をうまく描いていると思った。

(犯罪を犯した少年の動機「親の愛情に飢えていた」という「わかりやすい」動機は、「ファンタジー」に見え、子どもをモンスター化している(無意識的な)大人の側の自己反省であり、抵抗のようにも思えた。)

(評価:★5)

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