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[コメント] 愛のコリーダ(1976/日=仏)

経歴や身分といった制度的しがらみや、物欲や打算といった社会に付随した欲望など微塵もない。定が吉蔵に突きつけるのは、人が人であるための純粋な欲望であり、そこに如何なる不純も存在しない。そんな、いじらしさと切なさを松田英子は全身で体現していた。
ぽんしゅう

昨年(08年)の暮、映画公開から32年目にしてやっと無修正版を観たのを機にコメントを全面改訂します。76年の劇場初公開時の、ほとんど原型をとどめない黒塗り修正版はひどかった。あの無粋な手によって汚された「愛のコリーダ」に、高い評価を下さなかった人たちは、ある意味正直で真摯な映画ファンであったともいえる。

次に、2000年のリバイバル版を観た。確かに黒塗り部の面積が少なくなっていた。その分、あの無粋な手は、いったい何を、そんなにも懸命になって隠そうとしているのかが明確に分かった。その黒いシルエットは、そのまま男性器を形どっていた。滑稽千万である。その時に書いて投稿したのが以下のコメントだ。

「大島が描いた愛は恋愛ではなく性愛。人が人として生きるすべだからこそ、唯一「性愛」は全ての権力と規制に対峙できるのです。愛に嫉妬し、猥褻の名のもとに人の尊厳を覆い隠そうとする者への、美しく真摯な攻撃として男根はスクリーン上に映されたのです。」

今回、無修正版をみてこのコメントが半分は誤りであることに気づいた。男根は、猥褻の名のもとに人の尊厳を覆い隠そうとする者への攻撃として映されたのではなく、定(松田英子)のどんな見返りをも求めない無償の愛と、人としての純粋な欲望の対象として必然的に映し出されていた。すなわち、総ての社会的背景を剥ぎ取られ、定によってさらけだされた吉蔵(藤竜也)という男そのものの象徴として、そこに存在していた。

藤竜也の、何事も足しも、引きもされることのない「純粋」な人(男)としての象徴である男根を前にして、松田英子は、まぎれもなく無防備であるからこそ一本気な人(女)の「純粋」を体現していた。あの無粋な手は人の「純粋」さに嫉妬していたのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)chokobo[*] 水那岐[*]

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