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[コメント] 悪魔の沼(1977/米)

ワニという名の殺人機械と二十世紀的虐殺の風景。トビー・フーパー全作品を読み解く鍵。(2007.3.28)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 沼に隣接した宿を経営する男が訪れる客を次々と殺し、沼に住むワニに与える。しかし、この映画は、明らかにいわゆる動物パニック映画ではない。ワニは沼に潜んでいるだけで、事態を起こすのは基本的には男である。では、何故ワニが必要だったのか?(沼に沈めるだけではダメなのか?) 単なるサイコキラーではいけなかったのか? そこまで考えて私はハッと思い付いた、このワニは「機械」なのだ(なお、後の同監督『レプティリア』は本作での不満を解消するかのごとく「動物パニック」に徹していたように思われる)。

 男は殺す客たちをワニに餌として与え死体を処理する。しかし、男がワニを使っているのか、はたまたワニが男を使っているのか、この関係をどちらか一方で捉えることはできない。いわば、自動機械のイメージ、ベルトコンベア作業のイメージなのだ。そして、ワニは次々と人間を飲み込む(「食べる」という感覚はこの作品では皆無だ)。池に落とされた人間は肉片一つ残さずにこの世から消える。このワニが行うのは、完全な「抹消」である。ところで、前作にあたる『悪魔のいけにえ』において描かれていたのは人体の「資源化」であった。人間が料理の、衣服の、家具の、「材料」になる、余す所なく「資源」にされる。当て込みの邦題とは無関係に、この二作は対を成している。というより、この二作を見ることでフーパーの秘めたモチーフを彼の律儀な態度と共に知ることができる。「抹消」と「資源化」、この二つの現象はまさに一対の出来事としてナチスによるユダヤ人収容所で体験されたものに他ならない(ガス室/人間石鹸・人皮製品etc。この映画の序盤に、男が度の合わない眼鏡をいくつも取り出し付け換えるシーンがあることは極めて示唆的である。あるいは、男の義足だけが水面に残されるラストショット)。

 しかし、断っておけば、「この映画はナチスの歴史的犯罪を糾弾するものだ」などと馬鹿げたことを言っているのではない。そうではなくて、この映画(あるいは『悪魔のいけにえ』)の根底にナチス体験を含む二十世紀の悪夢そのものが鋭い形で据えられているそのことを指摘したいのである。二十世紀の悪夢とは何か、それは多くのフーパー作品に付きまとう、極めて量的な「死」の影(大量殺人、ロンドン滅亡、核実験etc)と「機械」のイメージ(チェーンソー、電動車イス、圧搾機etc)とに端的に表されているだろう。

 この映画で最も怖ろしいシーンを挙げるとすれば、ロバート・イングランド扮するチンピラのカップルが戻って来たことで窮地に追い込まれた男が、取るべき手立てを失い、しばし室内で佇むシーンであろう。床下からは子供の悲鳴が聞こえ、二階からは縛られた女の暴れる音、隣の部屋からは乳繰り合うカップルの声。男は事態をカップルに感付かれぬようラジオを大音量にするが、音楽は騒音を掻き消すことができず、歌声はもう一つのノイズとして虚しく響く。家中からの騒音に囲まれた男は室内を歩き回って弱々しくソファに座り、また立ち上がる。異様なシーンである。男の表情に浮かび上がる孤独と狂気。この映画において怖ろしいのは、犯人たる男の凶行それ自体ではなく(この点については一般に言われるように前作からの「パワーダウン」が否めない)、むしろその男が何か得体の知れない不安に怯えながらまた突き動かされるというその描写である(この点についてはむしろ本作の方がより病的でさえある)。では、男は何に怯えまた突き動かされるのか?

 男は獰猛なワニ=「殺人機械」を抱えている。それは「決して死ぬことがなく」、何もかもを食い尽くす「本能」を持っている。それに呼応するように、男は惨劇を繰り広げる。しかし、最後には男自らがその「殺人機械」の犠牲となる。これはあたかも、飽くなき膨張を続ける「文明」を抱える人類の姿そのものではないだろうか。

(評価:★4)

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