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[コメント] スプライス(2009/カナダ=仏)

思いがけず笑みを誘う甘美な演出とミュージカルを思わせる軽快なテンポは、「怪作」と呼ぶべき独走っぷり。とはいえ、結果的な大筋だけ見れば『スピーシーズ』と大差もなく、人物造形はC級映画の域。終盤に至り、いよいよ映画全体がちぐはぐに。(2011.9.30)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 懐柔から叱責へとコロっと態度を変えるでっぷりとしたヒゲ面の監視役、口を開く前から「私は現実主義者」と顔に書いてあるような女社長、心配性だが意志を貫けずに状況に引きずられるばかりの弟、という、このキャラクターたちについて「古典のような明快さ」と言えないこともないのだが、そんな痩せ我慢をしなければ、「単純さ」の間違いだろう。その監視役と弟が相次いで襲われようと、懐中電灯を池に落とすのと同じくらいどうでもよく、スリルを感じろ、というほうがご無体。脇役だからと済ませようにも、最もドラマらしい要素が用意されているサラ・ポーリーの役がまたつまらない。 母のトラウマという取ってつけたような背景は、行動を引き立てるというより、ただのエクスキューズに終始しているし、尾を切断する際に見せる冷徹な表情も、スリラー映画にありきたりの女性嫌悪とさえ思えてくる(男たちが排除された社長室で女二人が身を寄せるようにして幕を閉じるラスト・ショットにもこの気配がなきにしもだが、後述する理由で、ここには少し違う感想を持った)。しかし、このつまらなさには理由があるのかもしれない。

 ドレンに対する認識能力テストの場面の初め、「知能は確認されたが、彼女に心があるのかは未だ謎だ」というサラ・ポーリーのセリフが語られる。あくまで「スプライス」の専門家たる生化学者であって、必ずしも生命そのものについての探究心を持った人間でないとしても、こういうナイーヴな「心」観を持つ科学者というのは、ちょっと隔世の感がある。たとえば犬や猫に身近に接したことのある人ならば、犬や猫に「心」があるか、といった問い自体のどうしようもない傲慢さくらい感覚で分かるはずだ。哲学者のダナ・ハラウェイがあるインタビューで「ヒトは嘘をつく、サルも嘘をつく、素晴らしいことに、犬にはその素質がない」と感嘆を込めて語っていたが、実際、「人間のように考え行動するか否か」という意味でのみ「心」が論じられるのならば、そんなものがないこと(=人間のようでないこと)がどうして犬や猫を"mindless"と貶める理由になり得るのか。

 「心があるか」という問題の立て方そのものが、本来未知であり得るはずの相手を一方的に擬人化しようとする態度に過ぎないのだとすれば、「心がある」(=「我々のようである」)という判断もまた、その擬人化によく応えているかどうか、という勝手な読み込みの次元でのみなされているに過ぎないわけだ。それを裏切られたとき、「心を持っていなかった」と一方的に訂正したところで、自らの身勝手さを告白しているだけだろう。

 ドレンの行動をいわば「人間的に」解釈しようと努めるばかりでなく、自分とドレンとを母娘に見立て、人形を与え、化粧を教える、といったように「女の子らしく」あることまで期待する、そんなサラ・ポーリーがあまりに分かりやすくこの危険を冒しているのは、腹立たしさを誘う反面、それ自体この映画の巧妙な罠かとも思えるところがある。つまり、サラ・ポーリーの態度に疑問や反発を抱くことによって、ドレンへのいっそう無邪気な感情移入の危険にさらされているのは、むしろ観客の側だともいえるわけだ。さしあたりこの立場を画面のなかで代行するのがエイドリアン・ブロディだが、しかし、彼のダンスの誘いに、ひょこっと顔を出すそのドレンのしぐさに、愛らしさを感じ取るのは、映画を見ている我々のほうである。その意味で、サラ・ポーリーによるお仕着せの代弁(「この子に捕食性はないわ」「ウサギは野菜か?」)から見捨てられたドレンに、見る側がどのような視線を向けるべきか、きっかけとなった猫殺しと相俟って、ここにはスリリングな展開の萌芽があったはずだった。

 しかし、こういう混乱をこの映画が十分に突き詰めてくれるわけではない。エイドリアン・ブロディとドレンの関係は、人間モドキとの禁断のセックスという『スペースバンパイア』『スピーシーズ』でお馴染みのいつものアレにあっさり帰着し、その先に待ち受けるのは、やっぱりただのバケモノだった、というますますいつものパターンである。むろん、凶暴なオスへと変態したドレンが、しかし、"Inside...you..."という初めてのセリフを通じて知能の存在と記憶の連続とを主張するのは、皮肉だし、サラ・ポーリーが心の交流を再確認したつもりになった似顔絵もまたオスへの変態の予兆の産物だったのだとすれば、ここにもまた痛烈な皮肉があるだろう。だが反面、この裏切りは、「心」の有無という二分法を疑わせるというよりは、「知能はあっても心はない存在」という耳障りのよい答えに我々を導いてしまうものとして機能している。そして、それによって、見ているあいだ、観客の混乱を誘っているように思えた一切が、見終わってみると、たんに映画自体の混乱でしかなかったと感じられてしまうのだ。

 それにしても、なぜこの科学者カップルの作り出す生命体はメスからオスに変わってしまうのか。これは理由がはっきりしているように思う。遺伝子工学が、映画のなかの人工子宮に象徴されるように、(女性自身にとっても)妊娠・出産という「女の身体」抜きで生命を誕生させようとする欲望をかき立てるものなのだとすれば、遺伝子工学によって生み出された生命体がメスであることを突然拒絶するのは、理に適っている(機械が代行する出産によって生を受けた者がどうして進んで出産の重荷を引き受けなくてはいけないのか)。展開それ自体としてはあまり感心しなかったが、しっぺ返しが「女の身体」を標的にしてなされる理由に曖昧さはないだろう(と同時に、最初は捨て置かれ、次にはあっけなく殺されるエイドリアン・ブロディの姿を見ると、どうやら、いらないのは男のほうだったらしい)。

 余談。監督インタビューによると、「クライブ」と「エルサ」という科学者カップルの名前は、『フランケンシュタインの花嫁』の出演者から取られているとのこと。こういうネーミングのいちいちから、露骨にカメラにアピールしてくるエイドリアン・ブロディのTシャツまで、余裕の茶目っ気が映画全体にうかがえる。ベッドルームの壁にかけられたマンガといった日本趣味も、そういうおふざけの一種に含めていいのだろう。しかし、「未来を見たいならトーキョーに行くことさ!」なんていうそれこそ隔世の感のあるインタビューでのお気楽発言を読むと、次回作にウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』の映画化を予定というのは、たいへん不安に思えるのだが、大丈夫だろうか?(どうせ企画自体立ち消えになるのだと思うけど)。

(評価:★3)

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