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[コメント] スプライス(2009/カナダ=仏)

異なるものの「Splice(結合)」がもたらす、ヒトの在り方を脅かすSpliceな感情。僕らの知っている世界が微妙にずらされることで未知の感情へと導かれる、このスプライスでサプライズな新鮮さはまさに、映画という体験に求めていたものだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ウサギを噛み殺したドレン(演じたデルフィーヌ・シャネアック自身はああした容貌ではない)が、「あどけない」表情で笑いかけるカットの、愛らしさと不気味さの混在。ドレンが翼を広げた姿は、妖精のようでもあり天使のようでもある。過去の歴史の中で人類が想像し描いてきた存在が生物学的に実現されているという倒錯性。人類は既に倒錯的な存在に魅入られていたということでもある。死んだと思われていたドレンが土葬された後に、土が盛り上がり、甦るという、古典的な死者復活のイメージもまた登場する。復活といえば、風邪を引いたドレンをクライブ(エイドリアン・ブロディ)が水に沈めるシーン(水面の揺らめきと共に微妙に歪むドレンの顔!)では、両生類の肺を持っていたということでドレンが恢復するのだが、ここでの彼の「殺害」という行為がエルサ(サラ・ポーリー)によって「治療」と解釈しなおされることで、二人の事実婚関係もどこか仮面夫婦じみてくる。

イノセンス』の少女と人形のような入れ子構造が見てとれる。既にウサギを噛み殺していたドレンが、木造家屋で猫を見つけ、抱えて走り出したとき、観客は、この猫をも噛み殺すのだろうと当然予想するのだが、それに反してドレンは、猫を抱いて家屋の隅に座り込む。一方、エルサはドレンに、少女期に禁じられていたという人形を見せ、貴女のように隠していたのと教えるのだが、そのエルサ自身が、ドレンと一緒にいた猫を取り上げて「アレルギーかもしれないでしょ!」と禁止する。エルサが再び猫を連れてきて「飼ってもいいわ」と優しく告げても、ドレンは尻尾の毒針で猫をあっさりと殺してしまう。

このシーンでエルサは、ドレンと通じ合っていると感じていた一方的な思いを拒まれて、尻尾の切断という暴力に訴えることになる。それまでは「子供」として扱われていたドレンは、一転して「実験動物」扱いとなるのだが、そこへ至る過程は殆ど幼児虐待のそれを思わせる。人間と下等生物のSpliceとしてのドレンが揺さぶってくる感情は、その存在の両義性に因っている。

エルサがドレンに寄せる一方的な感情は殆ど全篇を通じてのものだが、象徴的なのは、ドレンという名の命名シーン。子供に言葉を教えるように、ドレンにアルファベットのチップを動かさせているエルサ。自分の名を教えていたところ、ドレンはエルサが着ていたTシャツの「NERD」という単語を並べてみせ、エルサは「関連づけたわ!」と驚喜する。だが、そこに「エルサはNERD」といった「関連づけ」がドレンによって為されているというのはかなり根拠薄弱であり、むしろ、たまたま目の前にあったTシャツのアルファベットの並びを模倣したに過ぎないように見える。また、関連づけという観点から言えば、「お前はマヌケ(NERD)」という拒絶の態度という解釈も可能ではある。つまりエルサは二重に都合よく解釈しているのであり、要はドレンを使ってお人形遊びをしているに過ぎないと言える。

この「NERD」を反転(配列の変換)した「DREN(ドレン)」という名の響きがまたいいんだ。

ダンスシーンで、クライブがドレンの顔を見つめながら、禁忌に触れたような戸惑いを見せるシーンは、それに続くシーンで彼が、エルサに対し「自分の遺伝子を使ったな」と批難する台詞によって、その戸惑いの意味が与えられたかに思えるのだが、その後でクライブがドレンの誘惑に乗って彼女と体を合わせてしまうことで、あのダンスシーンで観客が感じた倒錯的なエロティックさも映画内で引き受けられることになる。ドレンがエルサの遺伝子を継承しているということは、クライブにとってはドレンは半分、パートナーの女性と同一だということにもなる。そのことで、ドレンに惹かれる心情にも一定の正当性が与えられているかにも思えるが、クライブとエルサが実質的には夫婦関係に等しいことは、反面、クライブとドレンが結ばれることに近親相姦的な禁忌としての意味合いも与える。

こうした、現実世界のルールの前提となっている条件がずらされ、重なるはずのないものが重なり合ってしまう世界では、拒否感と魅惑とが、二律背反のままに混在してしまうのだ。

疑問が残るのは、再び「水中」で「死亡」と誤認されたドレンが復活した後のアクションシーン。本来ならばここで、男性化したドレンもまた、エロティックに感じられる魅力を備えた造形にしておいて、復活した「彼」を前に、エルサは庇い、クライブは抹殺しようとする、といった更なる倒錯がもたらされて然るべきだと思えるのだが、それまでの複雑微妙な感情のあやを一切捨てたかのように、雄ドレンは始末されるべきモンスター、SFホラーとして期待されるアクションシーンを最後に実現させる、ジャンル物のお約束のための要員扱いになってしまう。雄ドレンがエルサを犯すシーンは、半ば自分の分身であるクリーチャーに犯されるという、自慰的で自己愛的な倒錯感溢れる光景であるはずなのだが、単なる暴力的なシーンに堕してしまっている。

ところで、製作総指揮にギレルモ・デル・トロが名を連ねているのも、何というか、分かりやすい話ではある。ドレンの、目が離れた顔の造形が、どこか『パンズ・ラビリンス』のパンに似ているのだが、デザイナーが同じなのだろうか。あちらでも、羽根の生えた妖精が、物質的な実在感のある存在として描かれていた。

(評価:★4)

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