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[コメント] 少林サッカー(2001/香港)

この映画の最大の欠点は
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コメディとして2流であることだ。

確かに、中盤や終盤の試合場面におけるCGの使用には笑わされた。私が特に気に入ったのは球がトラのように変化するシュートだ。子供や漫画の発想を文字通り映像化する通快感・脱力感は並みの映画ではなかなか味わえない新鮮な感覚だ。CGという技術の長所を生かし可能性を広げた点は評価するべきだろう。

だが私がいいたいのはもっと別の場所にある。

この映画を見ていて思ったのは、暴力性の高さである。

暴力性。例えば序盤、歌を歌っているシンが観客から殴る蹴るの暴行を受けるシーン。更に酷かったのは中盤、練習試合に負けかけ、パンツを頭から被らされるシーン。

かなり久々に映画の暴力性を意識させられた。人が殺されるギャング映画やマカロニ・ウエスタン、アクション映画などよりもずっと暴力的な印象を受けたのだ。暴力性から見たらR−18に指定されてもおかしくないとすら思った。

何故か?これがコメディ映画だったからだ。

コメディ映画と他のジャンルの映画では観るに当たって心構えが異なってくる。これから起こるだろう笑いに対し、弛緩的な心理状態になることで用意が頭の中で成される。この《対コメディ映画的心理状態》は「暴力」や「怒り」といったネガティヴな要素を要求しない。

つまり、コメディ映画を観ることは、快楽(笑い)を追求し、ネガティヴさを無視したいという精神的な「非現実的行為」なのだ。夢を見ることだ。酒を飲むことだ。ここがコメディ映画の心理的特殊性だと思う。

ところがどうだろう。この「少林サッカー」では断続的に起こる暴力シーンによって私はいちいち現実に引き戻されてしまったのだ。簡単にいうと、暴力シーンにヒイてしまったのだ。こちらはこれから笑おうとしているのに、シリアスな暴力が映し出される。そのギャップが暴力をより暴力的に感じさせる要因になってしまったのだ。ヒイてしまうようなシリアスさと笑いは両極にあるもので、本来は共存できないのだ。一旦シリアスさによって現実感を味わったあとでは、次に起こる笑いに対しても準備がままならず心から(充分に)笑えなくなる。同じような理由から作品の歯切れの悪さも感じた。CGによるカタルシスは多少あるものの、私が途中で感じた違和感のようなものはどうしても消え去ることはなかった。

では、コメディ映画では暴力は絶対に避けなければならないのだろうか?

答えはノーだ。暴力シーンがあったとしてもコメディ映画は充分に成り立つ。一流のコメディ映画とニ流のコメディ映画の境界線は「暴力シーンが深層的な暴力性を伴っているか否か」にあるのだ。ここが重要だ。

例えばハリウッドにクリス・コロンバスという監督がいる。(ハリポタは未見だが)この人は本当にコメディを作るのが巧い。

彼の作品でややマイナーだが『ベビーシッター・アドベンチャー』という映画がある。この映画には悪玉が子供の胸ぐらを掴むシーンがいくつか出てくる。普通、胸ぐらを掴むという行為は非常な緊張感を生み出すわけだ。ところがこの映画ではそんな緊迫感は一切生じていないのだ。また、同じく彼の『ホーム・アローン』ではケビン少年が悪党に様々な攻撃を加える。現実では死んでしまうような攻撃だ。だが、たとえ屋上からレンガを悪党に投げつけたとしても、そこで笑いが発生するのだ。

クリス・コロンバスの巧さは暴力シーンから深層的な暴力性を「抜き取っている」点だろう。ひとことでいうと、暴力シーンとして目に映っていても、実際にそれを観客は暴力とは感じないということだ。コメディ映画としての流れを中断させず、観客をいちいち現実には引き戻さない。暴力のもつシリアスさを取り除き、コメディの一部として見事に同化させているのだ。ある意味、安心感のある一流のコメディの条件かもしれない。

結局のところ、少林サッカーはそのようなことが出来ていないため、コメディとしてニ流といわざるを得ない。CGの魅力だけでは引っ張りきれない不完全さがどうしても目につくのだ。3点。

(評価:★3)

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