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[コメント] 風の谷のナウシカ(1984/日)

当時のアニメーションの技術レベルを考えると、この作品のクオリティには快哉を。しかし、未刊の原作が、中途半端な形で映画になってしまったことは非常に疑問。また、ナウシカというキャラクターそのものや、描写にも違和感を感じる。
かける

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







■もののけ姫の地平からふり返った風の谷

□作品としての達成

今見返しても、アニメーションとしての達成は見事。

当時から語り草になっていた「巨神兵の崩壊」シーンも、今となっては時代を感じてしまう部分はある。しかし、これが20年近く前に作られていることや、当時他のアニメーション作品がまだまだいわゆる「ロボット物」的なSF物が中心だったことを考えると、その創作姿勢や技術にはさすがと、唸らせられる。

□少女の矛盾

残念なのは、この映画が原作が未刊の状態で映画化されたことだ。それゆえ、映画単独ではやや強引な大団円を迎えているような印象がある。

原作自体は、休載を経て一応は完結するものの、まだまだわからないことは多く、ましてや映画だけを観ていた場合は、様々な疑問やひっかかりが出てきてしまうのはしかたない。だからといって、映画そのもの以外の本や資料があってはじめて理解の一端が……という作品形体になっているのであれば、非常に残念。

主人公が「少女」であることの、宮崎作品における「特殊性」は、ここではまだ特別に目立っていないようだ。しかし、この作品でナウシカは、トルメキア兵を一瞬で殺害する大殺陣を見せる。きっかけや経緯はさておき、そのクールさと、巫女的でもある少女性の描写を対比したとき、その不整合面に悩んでしまうのは、彼女自身よりも観客の方が先ではないだろうか。

少女でなければいけない必然性と、そのキャラクターを突き放す部分を持つという二面的な描写は、もう既に始まっていたということだろうか。その矛盾がどこから来ているものであれ、宮崎作品にこの後も見られるそういった不整合面は、のどにひっかかった小骨のような違和感を、常にどこかしらに伴っているようにも思えた。

□腐海

大戦によって汚染された地表が、腐海によって浄化されている……という世界観は、自然と人間を根本的な対立命題として捉える宮崎作品としての基本的な描写だ。

そして、クシャナ率いるトルメキア軍は、腐海の守護天使的な存在である王蟲を戦争遂行手段として利用しようとする「悪」として描写されている。

畏怖するべき存在としての自然と、宿業を背負っている人間の対立構造として考えた場合、そのわかりやすさは物語の語り口としては平易で、理解しやすい。

自然が文明と「協調」「共生」すべきものとしてではなく、ただただ「祟り神」として存在するのは、新世紀となった今では単純すぎ、薄っぺらいサヨク的なトーンにも見えてしまう。しかし、時代性を考えればこれもしかたない部分もあるだろう。

しかしこの後、宮崎作品における「自然」がイコール「祟り神」としてどんどん肥大していってしまったのは、やはり時代の変遷(あるいは進化)とは逆行している。その逆進性はやはり不可解。

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ともあれ、結果的にこの作品が、宮崎作品が論じられる場合の、様々な要素のベンチマークになっているのは確かだと思った。

やはり、偉大なマスターピースということなのだろう。リアルタイムでこの作品を劇場で観ることができたことは、やはり貴重な出来事であり、経験だったと思う。

(評価:★1)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)けにろん[*] G31[*] 水那岐 さいた

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