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[コメント] 真珠の耳飾りの少女(2003/英=ルクセンブルク)

敢えて言う。この映画は飽く迄も「表面」に留まり、また、誰もが期待するようなメロドラマとしても不完全燃焼で、「まるで絵画のような美しさ」の映像の域を出ていない点にこそ、その芸術性の粋が輝いている。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ラスト・ショットに映し出される絵画“真珠の耳飾りの少女”、目を惹くのは、白く輝く三つの部分。真珠の耳飾り、潤んだ瞳、肉感的な唇。劇中でも描かれている、フェルメールのカメラ・オブスキュラへの関心について、美術家の森村泰昌氏は、「彼は純然たる光によって表面に浮かび上がる映像に惹かれていた。私は彼は、液晶絵画の始祖だと思う」と語っていた(“液晶絵画展”に際しての講演)。

この映画では、フェルメールと少女の間に恋愛感情らしきものが芽生えていたのかどうかさえ曖昧だ。殆どの人が、それを期待、とは言わずとも予測してこの映画を観た筈なのだけど。そのせいで、何か映画として中途半端な印象を受けた人も多かったと思うが、僕はむしろ、恋愛映画になり切れていない、だが恋愛映画でないとも言えない、そんな微妙な塩梅が、この映画を美しくしていると感じた。

少女に対するフェルメールの態度を見ても、少女への、男性としての興味を押し隠しているようにも見えるが、単にアトリエの掃除に来たメイドを話し相手にしたかった、という程度のようにも見える。そこへ、男性的欲望丸出しのパトロンが、この少女を描いた絵を所望する。この男が、給仕をする少女を強引に抱き寄せてみせる場面で、フェルメールは憤りを示すが、それは男の無作法さに対してか、それとも「俺の女に手を出すな」式の怒りなのか、判然としない。

画家とモデルの間に、男女の関係を疑うのは、このパトロンと、フェルメールの妻。或る意味、この二人は、平均的な観客の目線と合致している。だが、画家とモデルは、ちょっとした接触や、光の織り成す色彩という、「表面」を介してしか関係を持たない。フェルメールが妻に「君には理解できない」と、少女を描いた絵を見せるのを拒否したのも、自分の、少女に寄せる思いが絵に表れたのを見せたくないという、精神的な不倫関係の隠蔽という意味からなのか、それとも、妻の耳飾りを少女に着けさせてモデルにした事も含め、純粋に、ただ光の輝きを美しく描きたかっただけの思いを、妻には理解してもらえない、という気持ちからだったのか。

妻にとっては、自分の耳飾りが、夫によって密かに若いメイドに着けられていた、という事実は、浮気以外の何ものでもない。だから、描かれた絵を見ても、「汚らわしい」の一言しかなく、あろう事か絵を引き裂こうとさえするのだ。この映画の最後に、恐らく肉屋の息子の子を身篭ったのであろう少女のもとに、真珠の耳飾りが届けられる場面も、フェルメールの妻が「汚らわしい」から手放したものを、礼として送ったのだけなのか、それともそこに何らかの思いが込められているのか、謎のままに留まっている。それは、あの妻の疑いのように、一人の女を男が見つめ続けるという行為には、何らかの欲望や愛が伴う筈だというのが真実なのか、それとも、ただ光の美しさ、「表面」の美しさに魅せられ、虜にされているだけだという事があり得るのか、という問いとして、観客に投げ出されている。

「表面」的という事で言えば、この映画の描く人間関係もそうだ。スカーレット・ヨハンソン演じるグリードは、多少は色や光に対して感受性を示すものの、素朴で平凡な少女という以上の印象を与えない。だからこそ、真珠のように輝く絵画のモデル、「真珠の耳飾りの少女」としての美しさが際立つ。彼女以外も、肝心のフェルメールを含め、この映画の登場人物は、それほど内面の深みを感じさせる事が無く、濃厚な人間ドラマというものも無い。単純な嫉妬や欲望に駆られる姿だけが印象に残る。

フェルメールが少女をモデルに絵を描くのも、パトロンから頼まれて金の為に描く、という体裁をとっている。パトロンは少女に対して性的関心の方が優っており、だから「絵が完成するのが待てない」と言って少女を犯そうとする訳だ。金の為に絵を描け、と求めるのはフェルメールの妻なのだが、その彼女が、「金の為」に少女の絵を夫が描く事が許せない。だが、金が必要になるのは、フェルメールが欲望に任せて妻を抱き、子供が増える一方だからなのだ。少女の絵を描き始めてからの画家は、それまで妻に優しかった態度が一変するが、それは少女に愛情が移ったからなのか、或いは仕事に熱中して他が見えなくなっているだけなのか、どちらか一方に解釈を安定させる事が、観客には叶わない。妻は一方に片寄らせているから、精神のバランスを崩してしまうのだが。

フェルメールは、深い所で少女を愛していた、ともとれるが、単に、カメラ・オブスキュラや絵画の顔料といった、光と色の美しさしか眼中にないモノマニア的な男にも見える。この映画の予告編で、フェルメールのモデルをする少女が涙を流す場面に、意味深なものを感じた人は多い筈、というかそれがごく普通の解釈なのだが、実際にはこの映画では、耳飾りを着ける為に耳朶に針を通すのが痛くて泣いているのだ。そうして涙で潤んだ目と、舌で湿らせた唇の光沢、そして、耳飾りの真珠の輝き。

この、画家が少女の耳朶に針を通す場面も、少女が画家に命じられるままに舌で唇を湿らせる仕草も、零れ落ちた涙を画家が指先につけて更に少女の唇を湿らせる行為も、官能的な、いかにも恋愛映画的な描写とも言えるが、逆に、淡々と絵の準備をする即物的な場面とも思える。男が女の唇や涙に触れるというのは、本来、エロティックな行為なのだが、周りが見えないモノマニアたるフェルメールには、そんな意識すらなかったのでは、とも思えるし、一義的な解釈を許さない、複雑な映画なのだ。

少女の耳に、画家によって針が通される、という描写は、血が流れるという事も含め、処女喪失の暗喩ともとれるかも知れない。この場面のちょうど前、例のパトロンが、少女を襲おうとして失敗している。そして、少女は画家に頼んで針を通してもらい、あの“真珠の耳飾りの少女”の構図そのままの姿を、観客にじっくりと拝ませる。そしてそのすぐ後、肉屋という、なんとも即物的な職業に就く青年と、実際に肉体関係を持つのだ。だが、フェルメールは終始、光というものの即物性を介した形、表面に留まる形でしか、少女と関係を持とうとしない。中年男と青年の欲望にサンドイッチにされるフェルメール。少女は、フェルメールが自分に男としての欲望を示さなかったから、青年に抱かれたのだろうか。だが、あの耳飾りの場面は、彼女が初めて男に身を委ねた瞬間だとも言える。それは、ただ飽く迄も絵画としての完成度としてのみ結晶し、二人の関係は「表面」の域に留まるのだ。

そうした表面性、即物性の域に踏みとどまるこの映画は、その表面性も即物性も、ただ「光」という、映画そのもののマテリアルに収束していく事で、複雑な内面ドラマなどというものよりも、或る意味、遥かに精神性の高みに達している。カメラ・オブスキュラのガラス板の表面に漂う光の粒子に魅せられたフェルメールにとって、この映画は、彼自身が夢見た絵画の姿であったのかも知れないのだ。

(評価:★4)

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