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[コメント] 乱(1985/日)

血糊が赤ペンキに見えようと瑕にはならない、何故なら雲の動き一つ草の色一つとっても全て黒澤の意思であるかの如き映画だから。役者の所作から衣裳、メイク、美術等悉く計算された血達磨の雛人形。無常と情念を叩きつける武満徹の楽曲が画龍に点睛する。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







息子達が太郎、次郎、三郎と呼ばれている事からも予想できるように(姓も「一文字」という記号的なもの)、全てがシンボリズムで構成されている。次郎のテーマカラーが血の色を思わせる赤であったり、白が死と狂気の暗喩として感じられたりと、衣裳が言葉以上に個々の人物の位置付けや、場面での状況を明確に示している。

引きの絵が多い事もあるが、個々の人物の顔も記号として感じられる。インパクトが強いように思える秀虎(仲代達矢)や楓の方(原田美枝子)の顔も、様式的な演技とメイクによって描き込まれた顔として、個性というよりは、或る情念の典型としての普遍性を獲得しようとしているように見える。

太郎を演じた寺尾聰は無個性な顔ではない筈だが、髭に隠れて印象が薄い。彼が妻に迎えた楓の方と釣合いが取れていない事夥しく、この時点でもう、物語上の途中退場が決定していたようにさえ思える。その一方、鉄(くろがね)(井川比佐志)や狂阿弥(ピーター)などの個性は際立っており、決して無機質な人形が蠢く物語には堕していない。とは言え、終始顔の見えない末の方(宮崎美子)は、その素顔はラスト・ショットの菩薩像のように思えてくる。こうした象徴性によって、人間のドラマを俯瞰して見る作劇法が採られているのが見て取れる。

中盤の落城シーンでは、地獄絵図のような殺戮が極彩色で繰り広げられるが、その水を打ったような沈黙の上に武満徹の音楽が重なる事による、極限的な緊張感には打ちのめされる。編集のリズム、構図の取り方にも、完璧さへの飽くなき志向が漲っており、もう、この場面には涙が出そうになる。また最後に、三郎と秀虎の死を嘆く狂阿弥が「ちくしょう、神や仏は居ないのか!」と叫んだ瞬間、図ったように陽光が地に射し込んできた時には、神仏はともかくとして、映画の神は存在するのだと感じさせられる。

だが、まるで人間ドラマが無い訳ではない。序盤で、老いの為に人前で眠り込んでしまった秀虎に木蔭を作ろうと、三郎が、葉のついた枝を父の傍らにそっと挿す場面。父の前で毒舌を振るっている三郎だが、見えない所で本当に父を気遣っているのは、彼なのだ。三郎はこの後、父に向かって率直に過ぎる直言をして追放されるが、その時に秀虎が言う「この三郎を誰よりも可愛がり、甘やかしたのが誤りの元じゃ!」という台詞は、逆説的に、三郎が父から受けて来た愛情を感じさせる。だからこそ、終盤、息子達からも家臣からも見放された秀虎を三郎が迎え入れる場面が生きてくる。

息子という意味では、道化役の狂阿弥こそが、三郎以上に真の息子という面もある。もはや秀虎を見棄ててしまっても良さそうな状況で、尚もそれが出来ずに「俺は小さい時から、こいつの御守ばかりしている!」と嘆く狂阿弥。秀虎は、三郎との再会によって正気を取り戻すが、呆けた無力な老人である秀虎に最も近い息子役は、他ならぬ狂阿弥であったと感じさせられる。

合戦の最後に勝ち鬨を上げるのは、追放された三郎を婿に迎えた藤巻(植木等)の軍勢だが、彼らが掲げる旗が、秀虎や楓の方などが多くの場面で身に纏っていた白色をしているのが印象的だ。一文字家が滅びた後、その領地を受け継ぐのは恐らくはこの藤巻なのであり、そうした、いとも容易く権力者が一転する戦国の冷酷さが、この大らかで長閑な性格の藤巻の上にも表れるのだ。

七人の侍』に匹敵する傑作。『七人の侍』とは真逆の作品。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)けにろん[*] DSCH[*] chokobo[*]

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