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[コメント] 許されざる者(1992/米)

悪徳と名誉、卑劣さと倫理としての、暴力。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







亡妻を葬る墓穴を掘っているマニー(クリント・イーストウッド)と思しき人影から始まり、その墓を訪れた亡妻の母の影で終わる円環構造。そこに被さる字幕による、プロローグとエピローグ。基本的に字幕を好まない僕としては幾らか拍子抜けさせられたのだが、観終えた後、これは「イングリッシュ・ボブ」(リチャード・ハリス)についてきた作家のボーチャンプ(サウル・ルビネック)の役柄が示唆していたものの裏返しとも思えてきた。

ボーチャンプがボブから直接聞いて、目撃証言の裏付けもとってきた筈のボブの武勇伝は、現場に直接立ち会ったと言うリトル・ビル(ジーン・ハックマン)の言葉によって、武勇伝とは呼び難い、不恰好な真実が明らかにされる。尤も、ビルの言葉こそが事実だと保証するものは何も無い。結局、ボーチャンプの眼前でボブがビルに叩きのめされ、牢に入れられているという力関係が発言力の差として表れているに過ぎないとも言える。本作がアイロニカルに描くテーマとしての「暴力こそ正義」――より正確に言えば、正義は常に暴力に裏づけされているが故に、それ自体が一個の不正でもあるということ――が、ボーチャンプが象徴する「逸話以上のものではない『ガンマンたちの英雄性』」として描かれてもいるのかもしれない。

だが、この『許されざる者』の観客は、序盤からずっと情けない姿を晒し続けていたマニーが、ガンマンとして遂にその強さを証明する、その「現場」に居合わせることになる。一方、エピローグで「商売人として成功したという」と語られるマニーが家族と幸福に暮らす姿は、遂に一度も描かれることがない。不恰好に豚を追いかけている光景が見えただけだ。ボブとは逆に、ガンマンとしての自分を捨てようとしていた筈のマニーがガンマンとしての実力を証明し、その反面、幸福な家庭人としてのマニーは、オープニングとエンディングの、影絵のような光景と、文字によって間接的に示されるのみだ。

ネッド(モーガン・フリーマン)の惨殺に怒ったマニーが、それまで自らに禁じていた酒を口にするシーンは、過去の自分を甦らせたことの象徴であり、だからこそ、ろくに的に当てることも出来なくなっていた筈の彼が、酒場では必中のガンさばきを見せるのも理解できる。また、ネッドの口からは、過去のマニーが、酒に酔い、殺す理由も無いのに人を射殺したことがあったという逸話が語られていた。ビルとその部下らを殺す際にマニーが口にした酒は、敢えて理性を放棄する意思の表れだろう。彼は、空き缶を用いた練習シーンでも、殺しの為に銃の引き金を引くことに迷いがあったからこそ、上手く的に当てることができなかったのかもしれない。馬に乗ろうとして失敗するシーンでもマニーは「馬が鞍に慣れていないせいだな」と言い訳のようにも聞こえる言葉を吐いていたが、これもまた実際、彼の言葉通り、マニーの勘が鈍っていた訳ではなかったのかもしれないのだ。

片がつき、酒場からマニーが出て行く際におもてに向かって叫ぶ、「俺を狙った奴は、そいつだけではなく、友人や妻も殺してやる!そして家も焼いてやる!」という暴力的な宣言は、序盤で彼が豚を追って泥に塗れていた姿よりも、より汚辱に身を委ねているようでさえある。凶暴な言葉を吐きながらも、「ネッドを埋葬してやれ」「娼婦を傷つけるな」と、自らが葬った保安官が無視していた正義を、町に残していこうともするマニー。人間的な倫理を、非人間的な殺人鬼としてしか口に出来ないマニー。この、暴力に裏打ちされた正義は、或る面、娼館の主人が、ビルの命じた通りに馬を持ってきた傷害犯らに「もう少し遅れたら、保安官を呼ぶつもりだった」と言う台詞と照応し合ってもいるだろう。平然と、確実に人を殺せる者だけが、有効性をもって正義を保証できる世界。それが西部劇。

冒頭シーンでは、娼婦を切り刻む男の形相を、切られている娼婦の視点から捉えたショットがある。ラストの酒場では、ビルの側から、彼を射殺しようとしているマニーの厳しい表情と銃口を捉えたショットがある。切り返しショットによって、対等に捉えられる両者。暴力を、それを行使される側の視点から捉えるということ。話が飛ぶが、僕が、アメリカ映画で所謂「テロとの戦争」を描いた映画を観ていていつも違和感を覚えるのは、アラブ人側の視点からアメリカの攻撃を捉えたショットが、極端に欠けていることだ。多少は自覚的な作品でも、事後的に、傷ついたアラブ人の姿をアメリカ側から捉えたショットが見える程度だ。つまり、攻撃し、また攻撃される側でもあるアメリカ人が、飽く迄もアメリカ人の視点から反省的なショットを撮ることはあるのだが、画面そのものをアラブ側に、一時的にせよ預けることはなかなか無い。だがイーストウッドは、後に『父親たちの星条旗』を撮った際、丸ごと日本側の視点で『硫黄島からの手紙』を撮るような監督なのだ。

ビルが、単純な悪党ではなく、彼なりの仕方で町の平安と秩序を保とうとしている人物であることが、作品全体に深い陰影を与えている。マニーと比べても、ビルの為に割かれた時間はかなり多く、第二の主役と言ってもいいくらいだ。大工仕事を趣味にしながらも、腕前は悪いという愛嬌。気取った口調で「英国の女王は、殺そうとしても、何かか暗殺者を震え上がらせる。だが、大統領?殺してしまえるさ」などと喋っていたボブを、「女王の話を?独立記念日にか!?」と怒鳴って叩きのめすビルの熱い愛国心には、一種、感動させられもした。ボブが入れられた牢の前で、ビルがボーチャンプに銃を手に取らせるシーンは、そこに俄かに生じる緊迫感、三者の力関係が一瞬にして不安定化し緊張化する様が、人間関係そのものを一変する「銃」というものの存在の影響力を如実に示す、見事なシーン。

(評価:★4)

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