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[コメント] 抱擁のかけら(2009/スペイン)

原色を用いて画面はいかにもアルモドバルのタッチを継承しつつも、瞳を刺すどぎつさは後退して柔らかみが与えられている。それは初めて撮影を担当するロドリゴ・プリエトがもたらしたものか、それとも作家的成熟の証か。いずれにせよ、前作に続いてアルモドバルは開かれた映画を目指している。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 【牽強二題】

(1) 「復元」の映画

抱擁のかけら』は「組み合わせ」を手段として「復元」を提示する。無声のヴィデオ映像に映るペネロペ・クルスの発言は読唇術の女の声をもって再現される。タマル・ノバスはバラバラに破られた写真の欠片を検分して一枚の修復を試みる。ルイス・オマールは撮影フィルムを再編集して本来の『謎の鞄と女たち』を甦らせる。「本来の」と云ったが、それはつまり「あるべき姿の」ということだ。「あるべき姿」が「ある」と信じること、復元によって「あるべき姿」を現前させられると信じること、それは似姿たちがイデアに到達できると信じることのように、理想主義である。これはアルモドバルの理想主義の映画だ。だからオマールとブランカ・ポルティージョとノバスの三名がまごうことなき家族として、だが何よりもまず友情とビジネスによって結ばれた共同体という新たな家族像を体現しながら、映画は終わる。しかし、そう簡単にイデアに到達などできるものか。ゆえにオマールは視覚を失う。畢竟、視覚は似姿しか捉えることができないからだ。オマールは視覚を喪失することで理想主義的ハッピー・エンディングを迎える資格を得る。そうだとすれば、豊饒な画面によって視覚の歓びを訴えてもいた『抱擁のかけら』は、やはり引き裂かれたフィルムだと云わなければならない。そもそも、特異なモティーフや悪趣味と表裏一体の極彩色によって見る者を選ぶことを辞めたこの開かれた映画が、一方で作家の私的な理想主義に帰せられてしまうという在り方が多分に引き裂かれたものではないか。むろん、多かれ少なかれ、すべての映画は引き裂かれている。例外は存在しない。「面白い」だの「つまらない」だのといった一篇の作品に対する私たちの評は、実際のところ、その引き裂かれの在り様の種々に向けられたものにすぎない。

(2) ペドロ・アルモドバルはアメリカ映画を撮る

依然として「映画」はアメリカを中心に回りつづけているとは云え、『抱擁のかけら』というスペイン映画がアメリカに送る目配せの激しさを無視することはできない。オマールは「ハリー・ケイン」を名乗る。このアメリカ人に擬せられた筆名の唐突な登場は「ハリー・ライム」と「チャールズ・フォスター・ケーン」すなわちオーソン・ウェルズを想わせずにはいられない(この際、綴りの異なりは無視します。それともハリケーン?)。劇中でオマールとクルスが見る映画『イタリア旅行』の主人公はイングリッド・バーグマンであり、クルスは映画内映画でオードリー・ヘプバーンの容姿をなぞらされる。したがって、より正確には「アメリカに送る目配せ」ではなく「米欧間の越境者に対する言及」と云うべきだろう。ここでウェルズやロッセリーニやバーグマンやヘプバーンの来歴をおさらいするまでもないはずだ。だからポルティージョがオマールとノバスの元を離れる出張先はアメリカでなければならない。あるいは「視力を失った映画監督」というオマールの設定は『さよなら、さよならハリウッド』のウディ・アレンとまったく同一であるということを指摘してもよい。アレンが現代を代表する米欧越境映画人であり、近作『それでも恋するバルセロナ』においてはスペインを舞台にクルスを起用していたということもまた云うまでもないだろう。現在アルモドバルが米欧間の往来に関して多大な関心を寄せていることは疑いないように思える。彼がアメリカ映画を撮るのもそう遠くないと予言しておく。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)赤い戦車[*] Orpheus ぽんしゅう[*] shiono[*]

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