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[コメント] キング・オブ・コメディ(1983/米)

ロバート・デ・ニーロの狂気の度合いは冒頭から既に『タクシードライバー』ラストにおけるそれと等しい。またその狂気自体は劇の進行に従って増大するものではなく、ほぼ一定の値を最後まで保っている。行動のエスカレーションは周囲が加えてくる刺激の変化に正しく対応した反応にすぎない。
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**ネタバレ注意**
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私にとってはこれと『アフター・アワーズ』がスコセッシの絶頂期。設定段階でのほんのちょっとしたひねりが、スコセッシの偏執心理演出が存分に効果するための素地を調えている。

第一に、「熱狂的なコメディアン・ファン」と「コメディアン志望の青年(中年?)」という必ずしも不可分/相互依存的でないキャラクタ性をともにデ・ニーロに与えている点。コメディアンになりたい人間がコメディアン・ファンでなくてはならないということはないし、逆もまたしかりである。さらにデ・ニーロがキング・オブ・コメディを目指す動機はジェリー・ルイスないしスター一般への憧れが乗じてというよりも、自分をみくびってきた世間を見返してやりたいという暗い情熱であることが、母校の校長に謝罪をさせる妄想シーンなどにおいて示唆される(トニー・スコットザ・ファン』におけるデ・ニーロのストーカー心理と比較してみるのも面白いかもしれませんね)。

第二に、デ・ニーロ以上に「厄介な人」を彼の周囲に配置している点。厄介な人というのは私が提唱している映画の登場人物の一類型で、どういう人かというとつまり厄介な人なのだけれども、最も大きな特徴に「人の話を聞かない」というものがある。自分の意ばかりを通そうとして人の話をまるで聞かず、相手の目的の邪魔をする。そして必ずしも悪意からそうするのではなく、元来そういう性質の人らしいというのが厄介な人である。たとえばアッバス・キアロスタミ友だちのうちはどこ?』に出てくる大人はほぼ全員が厄介な人だし、スコセッシ作品でもデ・ニーロやハーヴェイ・カイテルジョー・ペシなどがしばしばこの厄介な人を演じている。さて、この映画においてデ・ニーロ以上に厄介な人というのは、云うまでもなくサンドラ・バーンハードであり、またデ・ニーロの母親である。この二人とは若干意味合いが異なるが、ルイスの秘書もデ・ニーロにとっては厄介な人だろう。我々の日常生活に照らしてみれば最も厄介な人であってしかるべきデ・ニーロの周りにそれ以上に厄介な人を置き、彼をきりきり振り回す。この演出の按配がとても面白い。

終盤デ・ニーロが念願のコメディ・ショウに出演するあたりからはもはや現実とも彼の妄想ともつかないシーンが続くが、彼のパフォーマンス部分はブラウン管のルックを再現した画面であらわされ、このメタ的に働く仕掛けがより映画を複雑にしている。そもそもここでのデ・ニーロのギャグはひとつも笑えないのだが、これはスコセッシが観客を笑わせないように演出しているのではなく、笑わせるつもりだったのに笑えないだけなのではないかとの可能性も完全には捨てきれない。結果的にということかもしれないが、まことに精密な宙吊り状態に観客を追い込むことになる。

 バーンハードはルイスに緊縛レイプを試みるも、スコセッシはそれを未遂に終わらせます。スコセッシがクリント・イーストウッド(『ルーキー』)と比べていかに健全か分かろうというものです。というかイーストウッドがキンキーなだけですが。

(評価:★4)

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