[コメント] CURE/キュア(1997/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「あんた、誰・・・?」と問われて、人は「警官ですよ」「教師です」「医者ですが、何か」と答えるのだが、もう既にこの時点で焦燥がにじんでしまい、重ねて「だから。あんた、誰・・・?」と問われるともう抗う余地はない。「定義づけ」とは「アイデンティティ」であるのだが、人がすがるアイデンティティの大部分は、さらに元を辿れば「記憶」に依存するところが大きい。「定義づけ」の根拠が薄っぺらいことを気づかされてしまうと、「記憶」すら信用に足るものであるかの疑念に苛まれ、ついには積み重ねた全てが崩壊してしまう(砂上の楼閣みたいなもので、序盤の海岸のシーンが極めて効果的)。「記憶喪失」とは「アイデンティティの喪失」でもある。記憶を喪失してこそ、自分を自分たらしめていた(縛り付けていた)環境を構築する「妻」「同僚」「友人」といった言葉は意味を持たなくなる。喪失、というより意味の破壊と瓦解に近い。この点を徹底的に攻撃するのが間宮の手口である。
暗示される「X」は「否定」、全ては暗示である、というメッセージに見える一方で、私には「代入」を示唆する「エックス」に見える。人は空っぽな器に過ぎない。器にいろいろなものを詰め込んで、それを「人間」と呼んでいる。内容物を持たずに、文字通り機械的にただ振動・回転し続ける洗濯機のイメージ。この「洗濯機」に「何」を入れるのか。何もかもを特定せず、定義づけしない、抽象性の、匿名性の、代入可能な、エックス。それを元「器」=屍体に刻んでみせること。
「あんた、誰・・・?」人は「エックス」に還る。凶悪なイノセンスだが、凶悪なのは、そこに凶悪という言葉すら存在しないからである。
これは考えられうる限り最も残酷な設問で、絶対に発してはならない呪文のような言葉なのだが、本来の意味を理解した者にしかその残酷性は付与できない。これを平然と撮ってみせる黒沢清は、やはり現在の映画界で最も残忍な男だと了解する。映画もまた記憶であるという自覚に立って切り裂かれるカッティングのとてつもない切れ味。観ている間に許しを乞いたくなる。
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