[コメント] ノック 終末の訪問者(2023/米)
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訪問者側も「自分は発狂したのではないか」という疑念と必死に戦った末に「選択」し、あの小屋を訪れたわけで、カルト信者の襲撃によるスリラーという単純な安牌に甘んじていない。何を信じ、何を選択するのか。よくある「究極の選択」ものではあるが、曖昧さや悪意、欺瞞、それに付け込んだフェイクや虚無が蔓延し、それを助長する「つながる」技術が発達した今だからこそ、改めて響く物語なのではないだろうか。今、この世界における「選択」、「偶然」、「必然」とは何なのか。虚構だらけの世界で信じるものをどう選び取るのか。それが過ちであるか正解であるか、判断するのは結局は自分のみだ。その「選択」の積み重ね、過ちと正解の積み重ねで世界は出来ている。そうあるしかない。その「選択」のひとつひとつが世界にどう作用するか。改めて深く考えるべき世界に我々は生きている。
ゲイのカップルが取った選択や、黙示録、各地の変異の沈静化に因果関係があるのか、決定的に説得力のある説明は終ぞ行われない。彼らの取った行動が誤りであった(黙示録に因果関係がない)可能性は、否定できないのである。しかし、その行動が「当人らにとっての真実」だったのであれば、もうその範囲で人は生きるしかない。しかしその選択は、どうあっても世界とつながった「善意」を信じる中において行われるべきだ。そう信じたい。(もちろんその「善意」こそが世界を壊すこともある。そこもこの作劇はきちんと押さえている。某国議会の襲撃事件を踏まえれば容易に想像がつくだろう)
出会うはずのなかった彼らが出会うことになった「必然」について一つ考えを述べると、不可思議で奇妙なものとされる訪問者と家族の邂逅は、実はさほど奇妙ではない(他に「よほど不可思議な奇跡にあふれている」)ということである。この考えを導くのが、随所に差し挟まれるゲイのカップルと養子の女の子に関するエピソードのフラッシュバックだ。私もこの演出はうるさい、テンポを損ねると感じたが、原作の叙法がどうなっているかは知らないけれども、これは必要な挿話だったのだと見終わってからは思う。このフラッシュバックのシーンは、旧来的な古い価値観においては「出会い、結ばれるはずのなかった」人々である(ゲイであり、アジア系の養子を迎える)彼らが、「彼らが信じた困難な選択」を行う重要なシーンなのだ。偶然を必然に変えていく試み。その積み重ねを行ってきた彼らであればこそ、「究極の選択」を迫られたときにどう判断するのか、「神らしき」ものに託されたのだと思う。シャマランの作品で二度以上の鑑賞に耐えるものはない、と辛目に見てきた私だが、これは見返したいという気持ちになった。最終盤の、思い出の曲が流れるラジオのスイッチのオンオフ、この無言のやりとり。ここにも未来に向けた二人の選択がある。この抑制の演出は素晴らしい。
「見た目だけでは分からない情報」という点に関しては、訪問者側の「理知的な強面」というバウティスタさんの造詣がいい。この人が出演していると、「悪い人であってほしくない」というバイアスが個人的にかかってしまうのだが、まさに、いい人なのか悪い人なのか分かりにくいギリギリを攻めていく。これは良いキャスティング・演技・演出が結実していると思う。
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