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[コメント] 素晴らしき日曜日(1947/日)

本作は敗戦直後のいろんなことを記録しているが、それらなしでも秀作だ。金のないカップルの寂しさが不易に届いている(含『生きる』のネタバレ)。
寒山

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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終盤の有名な廃墟の喫茶店開業ごっこと日比谷野外音楽堂におけるコンサート。この直前に二人がブランコに乗る件があるのを失念していた。今回見つけて、これは『生きる』ではないかと思った。ふたりのシルエットと丸い夕陽を捉えたショットは本作の終盤に相応しい諦念と希望がないまぜになったいいシーンなのだが、妻子を失いひとり死んでゆく志村喬と通底していると感じる。これは意図的な自己引用に違いない。

開業とコンサートの件が演劇的であるのに対して、ブランコの件は映画的だ。『生きる』でクライマックスにブランコを採用したのは、本作の反省があったのではないかと思う。中北千枝子の観客への訴えかけは「アイディア映画」全盛の当時らしいが、演劇で生で演ったほうがインパクトがあるだろうし、この手の多弁を映画の文法から除いてサイレント映画的な惻隠の価値を復興させたのは正にクロサワの映画的な業績だ。

このクロサワ流のベタ炸裂、演出としては、中北も沼崎勲もマンガチックな造形であり、だからディフォルメが許容される、というクロサワ映画全般に共通する手法が取られている。これは志村も同じだ。個人的には、若い頃は耐えられなかったものだが、年取ると構わなくなった。クールであり過ぎると見逃してしまうものが、こういうイモにはある。

「みんな貧しかった」話ではないのが意外な処で、本作の一般的なイメージから外れており、そこを見逃すべきではないと思う。貧乏なのは主演ふたりを除けば戦争孤児と焼け跡のシルエットの群衆に留まり、建付住宅もキャバレーも上等なもので菅井一郎の羽振りはいい。「闇で上手くやってやがる」者たちへの批判が本作の主張であり、これはコンサート会場での堺佐千夫のダフ屋(窓口で買い占めた切符をその場で売り始めるという無茶)に叩きのめされる沼崎でもって物語化されている。「敗戦直後、みんな貧しかった」とは一億総懺悔的な虚構の物語であり、格差がすでにあったのだという記録は傾聴に値する。貧しい恋人たちを見捨てないでくれという中北の訴えはここから聞くべきだろう。

それから、沼崎の「金がない時間なんて、幾らあっても仕方がないよ」は名科白だ。そうして沼崎は、まだ乳臭さの残る造形の中北を自分の部屋に誘いまくる。これぞ後年の第一次ベビーブーム発祥の瞬間だ。沼崎の部屋でふたりが折衝する件はやたら長く、確認したら22分半もあり、当時なら二巻を超える量なのだが、ベビーブームの記録と見れば充実した質量と云うべきだろう。将来の見通しがないのに同衾する男女という当時の常識は、そのままいまの政権与党の年寄り連中の常識なのだろう。冗談はさておき、やることのないアベックは切ない。街を放浪するにあたり、ひとりぼっちと比べてどちらが寂しいだろう。本作の求心力はこの序中盤にある。

沼崎がキャバレーで恐喝と間違われて別室で渡辺篤と呑む件、泥酔した踊子が飛び込んできて窓硝子を顔で割る。このスタンバーグを想起させる力感のある縦構図のショットは抜群で、本邦では60年代のアクション映画ならザラに見られるが、40年代にこれを撮れたのはクロサワだけだろう。商店街の空き地での草野球の件における仰角の連発もネオ・リアリスモ調、土管のコミカルな使い方も素晴らしい。私的ベストショットは先のブランコと並んで、コンサート会場へ走るふたりの連続ショット。

さて、本作は後年のクロサワ節とは印象が随分違う。中北が「わたしたち大衆」と何度も語るレフト寄りは後年では考えられない。以降、敗戦直後の風俗を描く作品は『酔いどれ天使』と『野良犬』がある訳だが、前者は、もうひとつの植草圭之助脚本だし、菊島の後者は刑事の視点から貧乏人を排斥するようなホンで本作と印象は正反対になる。

クロサワの長いキャリア通じて唯一の純然たる恋愛映画であるのも印象の違う処。40年代後半の邦画はキス解禁の時代であり、本作もこの系譜に含まれる。中北の貞操観念が最後に覆される作劇は、キスこそ民主化という当時らしい含みがあるが、クロサワはこういうのは嫌いだろう。これ以降は『白痴』などでぎこちなく描写された切りだ。キスなど撮るものではないと考えていたと思う。

本木荘二郎は破産してピンク映画に走り、植草はクロサワ天皇を批判して袖を別った。沼崎は東宝争議で組合側について独立プロの道を選び早逝、中北はナルセ組の看板となった。本作から感じられるのは、何でこんな面子で撮られたのだろうという奇妙さだろう。大江健三郎と江藤淳が最初期には共闘していたのと同じような、ある時代の始まりのカオスがある。それは「戦後の混乱」を絵に描いたようだ。

個人的には本作は圧倒的に中北の傑作である。邦画黄金期を支えた彼女の中年女の脇役は、昌子のその後として観ることを本作は許容してくれる。そのそれぞれは、何という人生だろう。

(評価:★4)

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