[コメント] 一人息子(1936/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭、「侏儒の言葉」から引用がなされる。「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。」
芥川龍之介がこの前段に置いたアフォリズムは「子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。」また、「女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。」ともある。
「哀れな母親」が日本社会においてどのように機能するか、芥川はシニカルかつ冷徹に云い当てている。母親の苦労に報いんがために、世間体を守り立身出世を志す保守的な心情は、軍国主義や高度成長を支えた原動力であった。ニーチェを耽読した芥川にとって、「弱者」とは安月給の教師に留まることではなく、ルサンチマンでもって出世を志すことに他なるまい。
引用が冗談でないとすれば、小津(あるいはジェームス槇の面々)は明らかに、このフィルムの物語を突き放して捉えている。物語にはリアルタイムで時代を生きた劇作家としての心血が注がれており、「哀れな母親」が何のシニカルもなしに肯定されている。がしかし、ラストのいかにも頑丈な工場の門を捉えるエンプティ・ショットに、この物語を相対化する視点が込められていると解するのは、冒頭の引用と照らし合わせれば自然なことである。美しき心情が社会的にはあの頑丈な門のような閉塞状態をつくりだすことを、小津はこっそり指摘している。山中貞雄が北支に送られるのは、その翌年である。
『東京物語』は本作の後日譚であり、あのように育てた子供は17年後には、自分の商売にかかり切りで親の相手などする暇もないか、または戦死している(原節子なかりせば『東京物語』はとてつもなく殺伐とした話だ)。立身出世の奨励がどのような結末を生んだか知ってしまった東山千栄子は、もう飯田蝶子のように子供に意見などしない。笠智衆はどちらの作品でも、なるようにしかならないと嘆息する。
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