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[コメント] (500)日のサマー(2009/米)

その映画のラストシーンと彼女の涙。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







卒業』のラストシーンは、結婚式場から逃げ出してバスの座席に身を落ちつけたふたりの表情が、微妙に虚ろに変わっていくというニュアンスこそが大事なのらしい。個人的に『卒業』は未見でストーリーの概略くらいしか知らないが、あの映画のファンであるらしい誰かが、以前どこかでそんなことを話しているのを耳にしたことがある。つまり、『卒業』のラストシーンのふたりの表情には、一瞬の青春の高揚の過ぎ去ったあとにまちうけているだろうリアルな人生の感触こそが既に兆しているのだ、と。

この映画の彼女は、その映画を観て号泣する。号泣する云われは明示的には語られないが、それは引用されたその映画のラストシーンが代弁してくれている。つまり彼女は、そこで悟ったわけだ。彼女が現在形でその中に身を置いていたその恋愛は、その映画に描かれていたような一瞬の青春の高揚に過ぎないということを、あるいは、そのようにしか生きることが出来ない自分自身の限界を。そんなシーンがあるという意味では、彼女は決して「分からない」女ではない。勿論恋愛のもう一方の当事者である彼には分からなかったかも知れないが、しかしそれは彼女が彼女であり彼が彼であることの必然なのであって、それはそれが分かってしまう女と分からない男との別れの運命をこそ証する。

すべては偶然か。勿論偶然だ。だがその人が現にその人であるということは、既にして偶然ではない。だから恋愛は、それが本当の恋愛であるならば、決して偶然ではない。だが同時に、それだからこそ、本当の恋愛とは言ってもそれは決して幸福な結末を約束したりはしない。だが、幸福な結末はまた決して(恐らく)恋愛の最良の果実でもない。なんとなれば、彼女は泣く。泣くのだ。それは決してその恋愛が嘘偽りではなかったことを証してもいる。彼は気がつけない。それに気がつけなくては、多分ダメなのだ。だがそれには時がいるだろう。僅か500日では何も自覚出来ない。もっと何百日も、何千日も経ってから初めて分かる恋愛だって、多分ある。

敢えて時系列をある程度シャッフルし、俯瞰的に構成し直したシナリオは、すべてを完結した過去形で捉えるものであり、その分だけキャメラ(演出)の対象への肉薄度は希薄にはなる。だがそれはその恋愛経験を単なる恋愛経験からもっと異なる次元のものへとひきあげ始めた自意識の語りなのではないかという感じはする。その自己完結は「恋物語ではない」ところのこの物語の可能性であり限界だろう。可能性という意味では、それはまさしく破れた恋物語をより普遍的なものへと昇華させようという物語であり、同時に限界という意味では、それは過去を総括してやっと現在に辿り着く「自己」の物語でしかない。だが、それで構うまい。可能性と限界とは、存在の固有性の表と裏なのであるから。

ズーイ―・デシャネルは、可愛いと思う。べつに美人ではないが、魅力はある。『ハプニング』の際にはさして気にもならなかったが、この映画では何度かジョセフ・ゴードン・レヴィットの気持ちにふと自分の気持ちがダブりそうになった。

(評価:★3)

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