★4 | 光る女(1987/日) | 相米のことだからクドいまでのダメ出しをした筈にもかかわらずのド素人カップル武藤と秋吉のヘタレで木訥な演技がモチーフの「純愛」にフィットし涙を誘う出来。クラブジョコンダの意匠は借り物臭いがシャープな撮影とフィルターワークが特筆。 | [投票(3)] |
★3 | 雪の断章 情熱(1985/日) | 新派の舞台劇みたいな大時代話を今更やってられないとの相米流開き直りがナンセンスな冒頭の18シーン1カットなのだろうか。にしては本篇での少女の捉え方は得意のモラトリアム心象的イメージを持ち込むワンパターン。嫌いじゃないけど。 | [投票(4)] |
★5 | 台風クラブ(1984/日) | 刻々と迫り来る台風の予兆と淡い危機への緊張と切迫の狭間で何かにつけて自制が効かずにイラつく中学生の生理が同期し過剰反応していく。このライブ感覚は生硬な物語性を凌駕しており、雨中の裸踊りこそ相米イズムの理想的達成。むず痒く居たたまれない。 | [投票(3)] |
★3 | ションベン・ライダー(1983/日) | 多くのシーンを切ったのだろう。プロットは崩壊し物語は喪失された。で、ひたすらに少年少女を肉体的に追いつめ事象を包括的にフィルムに定着することに偏愛を見出す。しかし、悲しいかな所詮は半素人のままごとにしか見えない。相米の極北。疲れる。 | [投票(2)] |
★3 | 魚影の群れ(1983/日) | 本来単純な構図の世代間の相克劇の筈が、歪な拘りで男と女の劇に執心し、実際映像に凝縮された内実のテンションもそっちが圧倒的なのだ。緒形と十朱の邂逅シーンの奇跡的達成と反するクライマックスのマグロ釣りのシーンの緩さが全てを象徴している。 | [投票(1)] |
★3 | セーラー服と機関銃(1981/日) | 「暴走族」と「屋上」の長回しが意味不明で物語に寄与せぬことで突出し、少女の女への成長譚解釈が正反な赤川と相米のギクシャクした相克の表出。それが一種青春の痛々しさへと転じる幸運。三國の怪演がリードする後半のアブノーマルな歪さも良。 | [投票(3)] |
★4 | 翔んだカップル(1980/日) | 若い男女がやむなく同居で内心ウハウハ的物語ではなく台詞の行間の空気。相米の関心はそこにしかない。窓外にたゆたうアドバルーンのように茫洋としたシラケ感はやがてモグラ叩きの剃刀のような刹那な痛みへと先鋭化していくのだ。 | [投票(3)] |
★4 | お引越し(1993/日) | 少女彷徨3部作の掉尾とも言える終盤の琵琶湖畔には些かの食傷を覚えるが、狸顔少女への偏愛の凝結点田畑智子の発掘はセンスと言うしかない。両親に無臭な中井・桜田を配したキャスティングも自然体の境地を思わせる。栗田のカメラが艶やか。 | [投票(1)] |
★3 | 東京上空いらっしゃいませ(1990/日) | 伝統的アメリカンコメディを踏襲するシナリオに対し相米流の少女の生理を搾り取るが如きネバネバ演出が思いの外影を潜めたのが成熟を思わせたが、職人に徹してペーソスを抽出するには至ってない。一方でカメラも演者も1級なのが歪な魅力を付与してる。 | [投票] |
★3 | 夏の庭 The Friends(1994/日) | 同じ小6の子供でも半分大人の女の子なら何かを描きようがあっても、純正ガキの男の子3人組では相米も手のつけようがなかったのかと思わせる。いたって平凡な児童映画の趣き。三國も当たり前すぎで面白くも何ともない。化学反応の起こりようもない。 | [投票(1)] |
★4 | あ、春(1998/日) | 父子の邂逅の物語が枝葉の部分が立ってラストに至り父と女達との物語にすり替わってしまう構造が不均衡とも思えぬほどに役者たちの充実度が目を見張る。委ねる境地に至った相米の懐で形成された山崎と富司・藤村のトライアングル。至宝だ。 | [投票] |
★4 | 風花(2000/日) | 役に不適合な2人のズブズブ旅路は殆ど何も訴求してこないのだが、終盤の雪のペンションの隔絶された異界からはザ・相米とでも言うべき居た堪れなさと遣る瀬無さが最奥部から滲み出る。死のうと思う時に見えるものはこんな感じだ。映画に託された遺書。 | [投票(1)] |