[コメント] 12人の優しい日本人(1991/日)
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この「批評性」がこの作品の長所。脚本は確かに巧いが、元ネタがちゃんとあるのだし、それをかなり参考にしているのが見受けられるので、三谷さん独力で書いた脚本とは言い難いだろう。もちろん、『ラヂオの時間』で密室劇の巧さは充分感じたので、彼の才能そのものには、ケチをつけるつもりも無いのだけど。登場人物たちの、いかにも日本人的な言動は、笑いを誘うというよりは、終始イライラさせられてばかり。かなりストレス負荷の高い作品だった。
コメディとして楽しめなかった事には、演出の方により責任があったように思える。ここは笑わせる所なんだろうな、という所で笑えない。終始、カメラが冷静に12人を観察しているのが、数々の小ネタを不発に終わらせている。その辺は、三谷さんの演出で再映画化してほしい所。音楽もほぼ排してのドキュメンタリータッチ、でも演技は演劇的、というチグハグさ。これならむしろ、演技もリアリズムに徹してくれた方が、クスリと笑えたように思う。そうすると、刺激に慣れた観客は睡魔に襲われるのかも知れないが。
最近、『十二人の怒れる男』の他にも『キサラギ』や『サマータイムマシンブルース』など、多数の登場人物たちがああでもないこうでもないと言い合いながら二転三転四転する脚本での面白い映画を続けて観ていたせいで、娯楽という意味でのカメラワークや編集のリズム感の無さが、物足りなく感じて仕方がない。
元ネタの『十二人の怒れる男』を先に観ていると、そちらで何度か出ていた「決をとりましょう」とか「話し合いましょう」という台詞に対して、「そればっかりだな」とツッコミが入る事や、『怒れる男』では、男たちが僅かに心を通わせていたトイレの場面で、並んで便器の前に立った内の一人が微笑みかけ、相手に「気持ち悪いな」の一言で済まされてしまう所など、『怒れる男』ではそれなりに時間を割かれていた場面なだけに、笑わされる。トイレの場面は他にも、休憩時間に皆が並んで用を足す描写があり、「実際のトイレ休憩って、こんな感じでしょ。少なくとも、日本では」という三谷の視点が感じられて、面白い。先の「気持ち悪いな」にも、アメリカ的な「男の友情」を日本でやってもな、という冷めたセンスが感じられ、確かにそうかもな、と納得させられる。
休憩といえば、『怒れる男』に比べて本作は、中休み的な場面が少ない。議論の途中に、緊張感に張りつめた沈黙が訪れる事もない。それは、本格的に熱を込めた議論が、終盤の豊川悦司の熱弁に至るまで、なかなか始まらないからだ。話し合いそのものが、半ば中休み的空気を含んだようにしてダラダラと続く日本的、微温的な「優しい」空気。それを破るのは、曖昧なフィーリングで何となく有罪に反対する二人の年寄りに同情した「優しい」ニセ弁護士の、かつて役者として演じた弁護士役の経験を踏まえての無罪論。「弁護士の役」を巧く演じる役者が最終的に主導権を握る、という辺りに、素人に判決を任せる陪審員制度への批評性を見てとる事が出来るだろう。季節が『怒れる男』のような夏ではないのも、場の空気の生ぬるさ、議論そのものがなかなかヒートアップしない状況に、合致している。
『怒れる男』は、ヘンリー・フォンダの「何となく腑に落ちない」から始まっていた。そこから彼は、丁寧な論理によって、他の陪審員の固い疑惑や思い込みを徐々に和らげていくのだが、『優しい日本人』は、むしろ他の陪審員にもそうした曖昧な「何となく」感覚が蔓延している。個人的には、あの人の良さそうな鼻血おばさんに、いちばん苛々させられる。あんな人と一緒に裁判員にされたら、こっちが鼻血を出しそうだ…。
『怒れる男』との比較で言えば、上述のような全体の雰囲気以外に、特に重要なポイントが、三つある。一つ目は、被告の顔が一切映っていない事。議論の中では、被告が若く美しい女性であった事や、「人を殺すようには見えなかった」という印象が、何度も語られる。冒頭で全員一致の無罪であっという間に終わりかけた話し合いを、有罪に転じる事で続行(というよりは、始まってすらいなかったのだが)させたあの男は逆にそこを突き、「若く美しい女性だからといって、人を殺せば犯罪なんです」と繰り返す。一方、『怒れる男』では冒頭で、怯えるいたいけな被告の少年の顔が、一瞬、大写しになる。これが観客の「心証」に大きな影響を与えている事は否めない。僕らは『優しい日本人』で、被告の姿から受けた心証だけを根拠に、理屈にならない自論を展開する陪審員に苛立たせられるが、振り返れば『怒れる男』で僕ら自身も同じ心証を抱いて、十二人の怒れる男たちの議論を見守っていたのではないか。
重要ポイント二つ目。最初に有罪を主張して議論の口火を切った陪審員2号は、『怒れる男』で言えばヘンリー・フォンダの役割なのだが、最終的には、被告に自分の個人的な恨みの相手を投影させていた、私情にまみれた男だという事が暴露されるという意味で、『怒れる男』での、あの、理屈にならぬ頑固親父の同類でもあるのだ。最後には、彼と同じ「無罪」に最後の一票を投じて全員一致のピースをはめる事になるのが皮肉だが、『怒れる男』のような、泣き崩れながら「無罪だ」と苦しげに呟く場面は無い。陪審員2号は、終盤で追いつめられはするが、トドメを刺され、悪役として葬り去られたりはしない。『優しい日本人』には、ヒーローも、悪役もいない。最後の退廷の場面でも(本作で映像的に見るべきものを感じさせるのは、この場面のみ)、12人全員が、一二人十二色に顔を見せて、去っていく。実に「優しい日本人」的なアレンジ。
重要ポイント三つ目は、その判決の流れ。『怒れる男』では、一人を除く全員が有罪、という状況から、全員一致の無罪へと転じる、鮮やかな逆転劇。無罪票も、一人から徐々に増えていく、加算的で一直線な流れ。だが『優しい日本人』では、まず最初に、陪審員2号すら無罪に投じての、完全なる全員一致。冒頭でいきなり話が終わろうとする展開であり、これは、原作を知っていて、しかも舞台で観ていたなら、まず笑ってしまう所だろう。そして、そこからスムーズに有罪票が増える訳でもなく、『怒れる男』に大筋で沿ったような流れも含みつつ、浮動票の、場の空気や情に流されやすい所は、実に日本人的で、事態はジクザクに縺れながら進行する。結果的には、無罪から無罪へと、元に戻っただけで終わるのだが、ここにこそ、「話し合う」事の大切さがある。劇中、「点取りゲームじゃないんだ」という台詞があるが、『怒れる男』は、一人で状況に立ち向かうヒーローがいて、徐々に票を獲得していく逆転劇がある、という意味では、「話し合い」そのものよりも「点取りゲーム」の勝敗に、その劇的面白さやカタルシスがあったのではないか。
もちろん、『十二人の怒れる男』はこうした批評的視点で致命傷を受けるほどヤワな作品ではなく、上に述べたような観点も、ちゃんと含んだ作品であったと思う。だが、それを観る僕ら「観客」の方は、無自覚な内に、何かフットボールの「観客」でもあるかのように、密かに逆転劇を期待して観ていなかったか。作品自体がそうした見方を誘う構成であったのは確かだが、それに気をとられすぎて、その内にあるメッセージを聞き逃してはいなかったか。『12人の優しい日本人』は、『十二人の怒れる男』を換骨奪胎したコメディであると同時に、原作のテーマを、原作以上にテーマに添った形に解体再構築した作品なのだ。
そんな訳で、映画としてはともかく、脚本自体は4点くらいは行っていたのかも知れないな、と。
他の国のバージョンも観てみたい。「優しい」の代わりに何が付くのか、各国の脚本家の批評眼の見せ所だろう。
あと最後、どうでもいい事だけど、この映画に出てくる飲食物は、ひとつも美味そうに見えなかった。
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