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[コメント] あゝひめゆりの塔(1968/日)

ヒロインは実によく歌い、そして泣く。歌は公開当時の時代が求めた観客への映画的サービスだとしても、感情の発露である泣きは作品の根幹にかかわる重要なもののはずだ。吉永小百合をはじめとする乙女たちの涙には、撮る者としての意味が必要なはずなのだが。
ぽんしゅう

与那嶺和子(吉永小百合)は2時間の間に、いったい何回泣いだろう。その涙は、すべて近親者の死に対して流されていた。身近な人を亡くした20歳そこそこの娘が、そのたびに号泣するのは当然ではないかと言われれば、そのとおりであろう。

しかし、映画にとってヒロインが何に対して涙を流すかは、当たりまえのリアルさをはるかに超えた重要な行為であるはずだ。いったい何が言いたいのかといえば、この作品の中には「怒り」や「諦め」や「悔しさ」に対する涙が一度も描かれていなっかた、あるいは伝わってこなかったということだ。

人の死を悼み悲しむ涙は確かに観る者の心を打つかもしれない。しかし、それ以上の想いを伝えることを阻害するのもまた事実である。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)IN4MATION[*] sawa:38[*] けにろん[*]

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