[コメント] ジョゼと虎と魚たち(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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しかし、逆に、深海魚の方が水族館を覗きたがっているとすれば、彼女が見たいのは、むしろ雑魚の方だ。海底の暗黒と孤独から開放された世界、たとえ嘘でも良いから、いろんな魚が同じ場所で、明るいその場所で群れ成し泳いでいる光景が見たいのだ。
そんな深海魚に、陽光の中を器用に泳ぎ渡っていた一匹の雑魚が、気まぐれにも興味を持ち潜ってみた。そこで、彼は、深海魚を背負い、深海魚の眼差しを通して自分たち雑魚の世界を見つめる――この視点の転換こそが肝であり、身体障害というモチーフは言ってみれば媒介に過ぎない。映画とはこういう装置だ。この一点で、映画は自らに課した義務を果たし、そして至極当然の結末に帰結する。
深海魚はついに水族館を見ることができず、泣き喚く。そして、雑魚は水圧に耐えきれなくなり、深海魚を背中から下ろすと、一人浮上してくる。
ただ、時間経過後の描写には不満を感じた。時間経過を使ったなら、その後に然るべき変化を描くのがセオリーだ。それをもって初めて経過した時間が画面に滲み出るというもの。もっとも、それは観る人によって変わるのか。
冒頭の倒置をもって時間経過後を優れた省略と評価できる鋭敏な感性があるとすれば羨ましい。鈍感な自分は、演出および演技を含めて、一年間寝続けたはずの男女にその月日の重みを表象するはずの変化を何一つ見出せず、またその三ヶ月後の男女に三ヶ月という数字が意味するところを何一つ見出せなかった。
結果、女に別れを告げた男が、その足で、もう一人の女の元に奔った挙句、無神経にも彼女の立場や気持ちには一切配慮せず、泣き出す―― このシーンにゲンナリした。そんな涙はちっとも美しくない。
人に優しくすることは難しいことじゃない。相手にとって都合の良い一面だけ見せておき、いざとなったら30秒きっかりで高飛びできるようにしておけばいい。責任さえ回避する準備ができていれば、いつでも誰にでも優しくできる。ただ、これは決して優しい想い出にはならない。申し訳無さや自己嫌悪や後悔の方が強く残る。そうでないものにしたかったら、最初から半端な優しさなど微塵も見せないか、内面の恥部を曝し、血を流す覚悟をもって臨むしかない。
ナレーションを聞く限り、このブッキー君にとって、ジョゼとの想い出はそれなりにキラキラ光るものとなったらしい。しかし、ここはどうなのだろうか?彼は戻れなくなることを怖れ、血を流すのを避け、しかし、一方でそんな自分に懊悩していた。彼は盆百の雑魚に過ぎなかった。ゴミ出す代わりに乳触らせてくれと懇願するあの男の方がよっぽど水圧に強そうだ。しかし、だからこそ、人前で泣くな、黙して語るなと想う自分の感性は間違っているのだろうか?
そりゃあ、時間経過後にブッキー君の懊悩をくどくど描いていたら鬱陶しがる観客も出ただろうし、ナレーション抜いたら装置として欠けるし、泣くシーンは絵的な感覚が優先したんだろうしな。
あるいは、自分がラストに不満だったのは、こんな小手先の問題ではなく、要は、自分が映画という水族館に求めているのが「すぐ退き返してしまう賢い雑魚の弱さと悲哀」ではなく、「ペシャンコになりかける極限まで水圧に耐えようとするバカな雑魚」だという身も蓋も無い結論に尽きるのだ。
もし、これが、ス
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