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[コメント] 競輪上人行状記(1963/日)

極めてアクチュアルな宗教映画。これほどラストの決まった映画を私は知らない。小沢昭一は天才だ。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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このラストの、殆ど大道芸な小沢昭一の輝きはどうだ。この一点に向けて映画は一見ノンシャランの体を装いながら巧みに整序されている。何より起伏に富んだ小沢の造形が素晴らしい。浮沈激しい行き当たりばったりの愚行を、彼は何も無駄にしなかったと知れる。自分の病は競輪場の観客全ての病だと認識できたが故に。私の人生も散漫なものだが、何かこのように全てのマイナスをプラスに転じさせる機縁はないものかと、考え込んでしまった。

練り込まれたホンだ。「悩みとか迷いとか屈託のある人は昔は寺に来た。それが今では競輪場に集まるんだな」なる序盤の加藤嘉の何気ない一言が正に機縁となっている。教え子の妊娠を近親相姦と推理する教師仲間の「貧乏は肌に突き刺さる痛みだ、慢性化すると抵抗力がなくなる」という度外れな発言も効いている。当時の邦画は不幸自慢傾向だが近親相姦の連鎖とは極端、その他犬肉売買など胸やけするほどのブラックユーモアは反転し、多情仏心の教えを現代に蘇らせて崇高に至る。小沢は周辺人物の不幸を眼を瞑りやり過ごそうとしながら覚えていたのだ。収束において、日陰者の南田洋子から、小沢の影として死んだ賭博ジャンキー渡辺美佐子の記憶まで、バラバラと登場していた人物たちがあるべき場所に立ち上がってくる。

このラストの「説法」、ああ小沢の奴とうとう狂っちゃったんだなあ、とか、巧い金儲け考えやがって、という解釈も広く受け止めてしまうのが見事だ。崇高であると同時にとても俗なのであり、中世の辻説法もこのようなものだっただろうと想わされる。仏教がアクチュアリティを取り戻すには街場へ降りて行くべきなのは坊さん以外誰でも知っていることで、本作の知恵こそ本来の仏教の姿勢ではないのだろうか。ともあれ小沢は、葬式仏教嫌いで釈迦本来の坊主になるという、序盤に語られた世間知らずな理想をいつの間にか実現させているのだった。曰く「汚れた体のまま阿弥陀様にお縋りしろ」。

再度観る機会があれば、加藤嘉と南田洋子の目線の交換は全部意味ありになっていることに気づかされるのだろう。倦怠感漂う南田洋子が重喜劇のなかで文鎮のように効いている(彼女への鞭打ちの件は監督自身の将来を自ら予見しているよう)。矢庭に登場して唐突に死んでしまう渡辺美佐子もまた倦怠感が只事ならぬ名演で、場の雰囲気をかっさらってしまう。野太い声も工藤夕貴似の茫洋とした伊藤アイコもポイント高く、本業はアイドル歌手だったらしいが汚れ役で好演。若き三崎千恵子が登場すると風呂屋がとらやに変貌する。全て失って取りあえず青森、とは青森競輪場行ということか。私的ベストショットはラストを除けば、子供が夜中に玄関口に無言で立っており、小沢がついて行くと加藤嘉の遺体と対面する件。

(評価:★5)

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