[コメント] ゾンビ(1978/米=伊)
もし世界終焉の前兆が目に見える形で起きたとしまして、それでもなお不毛極まりない討論番組が放送されているとするならば、その番組はさぞ張り詰めた緊張感に包まれているであろうことは想像に難くありません。それを「オープニングの掴み」に持ってくるセンスが、本作中何よりも素晴らしいアイデアだと考えます。朝生やタックルよろしく激論が交わされる中、絶望に呆けた女性、視聴率の奴隷と化したディレクター、政府の無力さ、作風に相応しいBGM……本作のカオスを表現するに当たって厳選した素材を濃密に合成しています。まるで深作欣二作品のような……いやそれ以上かと思われる物々しさを感じます。低予算映画にしてこれほどまでに圧倒的スケールを感じさせるオープニングが他に存在するでしょうか。
この作品に登場するゾンビは、凝った特殊メイクを一切しておらず、一歩間違えればコメディまがいの噴飯物になりかねない危険性を孕んだ「青塗り」が施されており、これを静止画で冷静に観ますと、正直申し上げまして酷くチープと言わざるを得ません。その言い繕い様のない欠点を覆い隠す仕掛けの正体といえますのが、オープニングにおける掴みなのだと思っています。 哀愁漂う会話や見せ場チラ見せ、物を爆破したりPV仕立てなど、物語のスタートは多種多様でありますが、「ゾンビ」のそれは最高峰のものと感じます。
――もう一つ素晴らしい点としましては、「社会的な内容と娯楽要素の自然な調和」が挙げられます。 風刺作品の多くは風刺対象をオブラートに包むものですが、今作は米大統領の如き堂々とした態度で、直喩的ともいえるほどわかりやすく見せています。それにも関わらず説教臭くなっていない所以たるは、風刺の舞台上で繰り広げられる変化に富んだ娯楽要素のおかげであります。大量消費社会を風刺する意図がシンボルとしてのショッピングモールに繋がりまして、ショッピングモールとは舞台装置の宝庫でありホラー作品史上指折りの発見だったのです。ヘリコプターに乗り込んだ一行がモールに訪れるのも、武装した暴走族がモールに乗り込むのもごく自然な展開であり、ゾンビが物を消費する本能に従って訪れるというのは後付けされた設定っぽいものの、これもまた本能化に及んだ消費欲という風刺であります。アクションシーンへの発展に関しましてもまた同じように自然であります。
2010年10月7日追記 {『カッコーの巣の上で』を鑑賞したところ、この作品の見方が変わりました。『ゾンビ』がアメリカンニューシネマ的なものに影響を受けていることは一目瞭然です。だからといってこの作品が「二番煎じ」であるかと言われれば、違うと思います。私が観たアメリカンニューシネマ的映画(『いちご白書』、『カッコーの巣の上で』の二作品)や、その源泉と思われる作品(『1984』)は、圧制の対象が目に見えるものです。圧制の象徴たる所長的な存在がいます。しかしこの作品にはただ「モノ」が存在するのみであり、「消費システムの見えない鎖に繋がれる」というのは斬新なアイデアと言えるのではないでしょうか。
「資本主義を題材にしてアメリカンニューシネマを創る」なんて、凄い発想だと思います。映画オリジナル脚本である点や、映画的に映える画が多い点、小説では味わいにくい娯楽性の高さを考慮すれば、この作品は『カッコーの巣の上で』以上の評価を受けても何ら違和感をおぼえません}
スティーヴン・キング曰く「作品は発掘するもの」……といった趣旨(つまり、様々なパーツを組み合わせるタイプの創作方法をとらない)の発言をしていますが、本作は要素同士の間に醜い繋ぎ目があまり見えず、まさにそれに該当するといえまして、キングとロメロに親交が生まれた要因ではないでしょうか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (6 人) | [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。