[コメント] エレファント(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
あの出来事は、アメリカに穿たれたひとつの傷だったのだろう。それは、自由という名の美しい皮膚を切り裂き、腐臭を放つイデオロギーを露呈させた。
マイケル・ムーア(この名前を出さざるを得ない)は、この傷を剔り、内臓を引きずり出そうとする。なぜなら、この傷は外部から与えられたものではなく、その内部から生じたものだからである。だからこそ、彼は傷をさらに剔り、その内部に潜む原因を見つけだし、排除しようとするのである。
それに対して、ガス・ヴァン・サントは、その傷を縫合し、精巧な人工皮膚によって傷跡を覆い隠すのである。
私たちの手に負えない狂気、それがここでは取扱可能な道具へと置き換えられる。
その道具とは、ダメ親父を持つ普通の少年であり、気弱で友達のいないブス(眼鏡付)であり、体育会系の男と美人のカップルであり、頭の悪い自己中な女子たちであり、無能な校長であり、ヒーロー的黒人である。
その方法とは、始まりと終わりとの空のシンメトリーであり、ステディカムによる長回しであり、同一場面の重層的描写であり、日常風景の持続とその崩壊のカタストロフである。(さらに、始まりとしてのブスの死、ヒーロー的黒人の無力な死、仲間殺しといった、観客の予想を裏切るような演出でさえ、「予想の逆」という点において、私たちに利用可能なのである)
ここにあるのは、あの出来事の強度を伝えようとする努力ではない。そうではなくて、演出技術における衒学趣味である。あらゆるクリシェを駆使して再現されたところに、あの出来事の持つ特異な狂気は、僅かでも見出されうるのだろうか。
この映画があの出来事に対する何らかの回答になるというのであれば、それはあくまでも否定的なものになるだろう。解決というよりは、むしろ慰安である。
自らの内に潜む原因を求めて傷を剔るのではなく、自身の過失を認めずに傷口を覆い隠そうとする行為は、まさにアメリカ的。
(しかし、その縫合技術のレベルの高さという点において、すなわち映画としてのクオリティの高さに関して、素直に評価したい)
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