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[コメント] CASSHERN(2004/日)

監督はPV(プロモーションビデオ)をつくってきた人だが、椎名林檎の曲にとっては、PVにさえならなかった。戦闘シーンは、漫画であり、紙芝居だった。
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「アニメの実写化はやっぱりダメだ。」「原作を反映していないだけでなく、映画としてもダメだ。」「『CASSHERN』は『デビルマン』に助けられた。」悪評はかねてから聞いていたが、それでかえって興味が湧いたので見てみた。……いや、みなさんのおっしゃるとおりで。

ちなみに、私は原作アニメは全然見たことがない。題名こそ知っていて、「鉄の悪魔を叩いて砕く……。」という有名な言葉もどこかで聞いたことがあったのだが、「キャシャーンって、どんな姿だったっけ?」と言っていたくらい。それくらい原作に愛着がない私が、この実写版を見て「だめだこりゃ。」と思ってしまったのである。すでに随分と叩かれているけど、とりあえず自分なりに感じたことを、自分なりの表現で書いてみよう。

劇場で公開された当時、雑誌(「ぴあ」だったかな?他の雑誌かも知れない。はっきり覚えていない)に、この映画が紹介されていた。「映画で未来都市と言えば、『メトロポリス』や『ブレードランナー』が有名だ。特に後者の影響を受けた映画は多い。今回、紀里谷監督は前者をリスペクトした都市をつくっている。」といったことが書かれていたと思う。いざ、映画を観てみると、ストーリーは、「ブレードランナー」のレプリカントではないか。「メトロポリス」プラス「ブレードランナー」なのだ。何のことはない。未来都市までコピーしたら「ブレードランナー」そのままになってしまうから、「メトロポリス」にしたのだろう。

とはいえ、過去へのリスペクトは大切だし、新しさがなければダメというわけでもない。ただ、どうせならもっと煮え切らせてくれないか?人造人間や改造人間の苦悩というのは、過去に何度も扱われてきた題材であるだけに、完成度の低さが悲しすぎるぞ。

樋口可南子のところに、戦争で死んだはずの伊勢谷友介が現れる。あれは幻だったのか?それとも……。ここはまだよかった。ところがこの幻、その後もしつこいくらいに出てくる。麻生久美子のところにも現れる。研究所では、銃撃戦の中に立っている。

……ちょっと、出過ぎじゃないか?

それでも、まだ我慢できた。伊勢谷のゴーストが、自分の死体と、その前で泣き崩れる麻生久美子を目にするシーンは、不思議な気分だ。その後、寺尾聰が、伊勢谷の死体を研究所に持ち込む。死人が生き返る不思議な液に浸けようとする。ゴーストが叫ぶ。「やめろ父さん!俺はそっちに戻りたくないんだ!」

さすがに、ここでずっこけた。

説明台詞ばかりのこの映画、死んだ人間が生き返る苦しみも、ゴーストの台詞として説明しちゃうのだ(まさかこのゴースト、この台詞のためだけに出てきたんじゃないだろうな)。ゴーストなんか登場させなくても、フラッシュバックでよいではないか。死体を運ぶ寺尾聰。場面変わって、過去の映像。戦場で苦悶の形相で叫び、死んでゆく伊勢谷友介。それと叫び声を上げて生き返る伊勢谷友介が、オーバーラップする。これでよいではないか。そして、望みもしないのに生き返らせられた人間の苦しみは、生き返った後、きちんと描けばよいではないか。(同じ伊勢谷の出演作『黄泉がえり』はその辺をうまく描いていた。)

自分の死体と対面するシーンも、ゴーストではなく、クローンだったらよかったかもしれない。寺尾聰は息子の死が受け入れられず、伊勢谷のクローンをつくる。クローンとして新しく生まれた伊勢谷友介が初めて目にしたものは、自分の死体だった……。自分は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。これぞレプリカントの苦悩ではないか。

一方、伊勢谷友介の復活と同時に生まれた唐沢寿明は、銃撃戦で大した活躍もせずに雪山の工場にたどり着く。そして最初の台詞を発したかと思えば演説である。「我々は生きている。」「人間は我々を排除しようとした。」唐沢の演技は本物だが、それがかえって虚しい。こういうのは、彼らがいかに差別されてきたか、いかに残酷な目にあってきたかを描いてこそ生きるのだ。唐沢寿明、ほとんど銃撃戦とは絡んでなかったじゃないか。

その後、伊勢谷友介と唐沢寿明が激突するが、主人公が戦う動機も説明されておらず、敵が人類に戦いを挑む動機も未消化だから、どちらにも感情移入できない。ここで映画開始からすでに1時間。これだけ時間をかけて、動機説明すらされていないとは……。

しかもこの戦闘シーン、目がチカチカしてくる。カットが細かすぎる。もはや映画じゃない。『デビルマン』は大駄作だったとはいえ、シレーヌとの空中戦だけ取り出して言えば、ひとまず映画になっていた。『キャシャーン』のバトルは漫画か紙芝居だ。ジャンプする、着地する、走る、敵が発砲する、砲弾(ミサイル?)を素手で受け止める。それぞれが別々のカットになっていて次々と映される。漫画を一コマずつ拡大して紙芝居にし、猛スピードで見せられているみたいだ。漫画だったら、ジャンプするのも、着地するのも、走るのも、コマどうしのつながりも、読者の想像力が補って動いているように感じられる。作者がそう感じさせてくれる。しかし、この映画は最初から動いている。動かす必要もないものを動かしている。いっそのこと静止画ばかりにしておけば、「斬新な演出だ!」と絶賛されたんじゃないだろうか。しかもカットからカットへのつながりが感じられない。カットの順番を入れ替えても、誰も気付かないんじゃないだろうか。

静止画として見れば、美しいカットはたくさんあるんだよ。でも私が見たいのは映画だからねえ。

M・ナイト・シャマランの映画を、「どんでん返しなんかどうでもいいんだよ。きれいな映像だから好きなんだ。」と楽しみ、タルコフスキーの映画は「『惑星ソラリス』より『ストーカー』の方が感動したな。映像もきれいだったし。」と言い、ストーリーがわかりにくいと言われた『シン・シティ』も、映像がきれいだからという理由で許していた私。映像がきれいだったら、すべてよしかい?と自身に突っ込んでいたが、『CASSHERN』のおかげで、そうではないことがわかった。ありがとう。

映画の冒頭では、未来都市の風景を延々と映して、そこに寺尾聰の長い台詞がかぶさる。肝心の寺尾聰の姿はなかなか映されない。舞台となる未来世界がどんなものかを説明するのが目的なのだ。

寺尾聰と小日向文世が研究室で話す。麻生久美子の名前が挙がれば、彼女の映像が出る。奥さんのことが話題に上がれば、樋口可南子の映像が出る。「パーツどうしが結合して再生している。」という台詞に、その映像が被さる。

台詞が説明的すぎる、と言われている本作だが、こうした、映像に説明となる台詞をかぶせるのって、映画の予告CMみたいだ、とも言える。監督はPV(プロモーションビデオ)をつくってきた人だけど、映画のPV(予告CM)そのものだ。音楽の替わりに、役者の台詞が流れるPV状態。

椎名林檎の「茎」に関しちゃ、PVにさえなってなかったぞ。突然、聞き覚えのある曲が流れてきたから、びっくりした。びっくりした、というのは、「ここで、この曲を聴くとは思わなかった。」という驚きである。キューブリックのようにコラボレーションのセンスが凄いという意味ではない。完全にあの曲は浮いていた。しかも、ちょっとだけ流れて、すぐに消えてしまう。もう少しましな使い方をしてくれよ!たぶん、椎名林檎の曲を知らない人は、何も気にせずに見ていたのだろう。しかし、観客として勝手なことを言わせてもらうなら、知っている人間も感動させて欲しかった。既成の音楽をBGMに使った映画はいくつもある。そのセンスに驚かされたものもある。椎名林檎なら、死や孤独、自分みたいな人間に価値があるのかという劣等感といったテーマなら、散々歌ってきた人だから、絶対によい組み合わせがあると思うのだが。

歌の内容を無視して題名だけを見れば、「葬列」という曲もある。「ドッペルゲンガー」というのもある。「やっつけ仕事」もある。”やっつけ仕事”というのは、敵をやっつける仕事の意味では、もちろんないけど。

そうか、原作アニメを知っている人間の、「キャシャーンをそんなふうに扱わないでくれ!」という気持ちがわかった気がする。この気持ちが2時間以上続くんだな。

さて、口直しに、椎名林檎のPVでも見るか。

(評価:★2)

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