[コメント] ビッグ・フィッシュ(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ここでティム・バートンが語る父親と息子についての物語から彼の成熟/成長を見て取り、それに対して賞賛を送る、あるいは失望を表明するといった振舞いをしてみせることは、さほど重要なことではないように私には思われる。そもそも「映画」とは原理的に〈現実〉と〈虚構〉がせめぎあう場のことであるのだから、むしろ『ビッグ・フィッシュ』はバートンが最も真正面から「映画」と向き合った作品として記憶したい。
そして、これはやはり感動的な「量」の映画だ。ローマンの家の前にマクレガーがつくってみせた花畑の、その水仙の過剰な量。「ローマンのためにこれほどの水仙を集めた」という事実が示すマクレガーの想いの深さよりも、その量の端的な過剰さがまず私たちの心を打つ。
ビリー・クラダップが語り出す父アルバート・フィニーの「死に方」についての物語においても、フィニーのために川岸に集まった人々の量には目を見張るものがある。そして、その集まった人々は皆「笑顔で手を振る」という同一の身振りでフィニーを見送る。続くフィニーの葬儀のシーンでも、大勢の参列者はやはり同一の姿勢でもって墓の周りを取り囲む。これは「量」と「同一性」を湛えた画面による映画的な葬送だ。まったく感動的ではないか。むろん、ここで多なる「量」を形成している「個」たちがダニー・デヴィートやスティーヴ・ブシェミといった「フィニーの物語の中の住人」にすぎないとばかり思っていた人々であった(=「〈現実〉と〈虚構〉のせめぎあい」)、ということが感動を倍加させているのは云うまでもない。
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